先人たちの「健康長寿」とは?(六人目後編)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●渋沢栄一(1840-1931)91歳9か月 我が国資本主義の父(後編)

  1. 渋沢の海外修好

日露戦争で我が国は勝利を収めたが、これは米国のルーズベルト大統領の斡旋によるものであった。戦争終結時、ロシアはまだ十分な戦力を維持していたが、日本は兵力も国力も枯渇し、これ以上戦争を続ける力はなかった。小村寿太郎は、戦勝による賠償金を取れなかったが、これに憤激した民衆は、日比谷で焼き討ちの暴動を起こした。また、対外的にも奢り、尊大な態度を取るようになった。米国では、日本の学童や移民の排斥の法律が上程されるようになった。

渋沢は小村の要請を受け、国民外交を始めた。明治41年、アメリカ西海岸各都市の代表50余人の来日を受け、自ら飛鳥山の自邸に一行を招待した。渋沢の謙虚で明るく、誠意と情愛にあふれ、誰彼の区別なく対応するその態度は、広くアメリカ人に好感を持たれた。そして翌年、渋沢以下31名のメンバーに返礼の招待状が届いた。

渋沢は70歳であり、体力に自信がなかった。だが団長として全米53か所の都市を回り、主だった政治家、実業家に会い、工場・鉱山・農場などを視察した。どこでも歓迎されたが、渋沢は常に講演を行って、日米修好に努めた。

大正10年、渋沢は四度目の渡米の旅に出発した。目的はカリフォルニア移民問題についての排日緩和とワシントン会議の傍聴であった。渋沢は82歳となっていた。だが米国政府に人気のある渋沢は、厳寒のアメリカへ老体で赴いたのである。ワシントン、ニューヨークですばらしい大演説を行った。米国滞在中、渋沢の講演した回数は90回に及んだといわれる。アメリカで日米の外交問題についてスピーチした際も、「次回ここに来るときは棺を一緒に乗せてくるかもしれない、それでも私は必要とあらば参ります」と断固たる決意を語っている。

大正12年9月の関東大震災では、渋沢の安否を気遣うサンフランシスコ市民から60万ドルの寄付があり、全米からの物資や寄付は三千万円を超えたという。渋沢はまた中国の孫文とも親しい交わりがあり、日中友好に尽力した。

  • 日常生活と健康

渋沢は生来温厚で、いつも春がすみのような笑顔を浮かべていたが、一方では強い意志の力を示したという。面会希望者には誰でも会った。紹介状などは不要であった。76歳の高齢でも、意気壮者を凌ぎ、平均15時間にわたって仕事をした。

渋沢栄一の「私の健康法」は次の通りである。

第一には不断の活動が必要である。計画を立てて60歳から90歳まで活動するがいい。

第二には節制である。活動が無理になり、過度になるのは注意せねばならぬ。活動と節制とが車の両輪のように調和する時、元気の要素が生まれる。しかし、真の健康法はかくの如き外形的な事ばかりでは駄目で、精神が大切だ。人事を尽くして天命をまつ。平和そして満足が何よりも必要であろう。

活動、節制、平和が完全に行われたら、140歳までは生きられる。

煩悶、苦悩すべて快活に愉快に、これが私の秘訣である。

酒は飲まぬ。タバコは33年前に止めた。食べ物にえり好みはない。

わずかの時間をぬすんでは、経書(四書五経)を読む。

かくてニコニコたる童顔に、あくまでも幸福と健康があふれる。

時事新報に「渋沢流健康法」という見出しで、次のように書かれてある。

「西欧では健全なる精神は健全なる身体に宿るというが、自分の経験ではそれは逆であって、精神の直きものこそ健康であると信じている。

色々の養生法もあろうが、それは末の問題である。人はどうせ年をとる運命に置かれている。老境に臨んで無病息災こそ望ましいもので、自分は90歳までに、まだ3年あるからなお、今後、長寿法を研究して紹介したい」

昭和5年10月、90歳、亡くなる一年前の日課は次のようなものであった。

午前6時~7時:起床、朝浴(夕浴は殆どとられない)

午前8時~8時30分:朝食パン5片(半斤の三分の一)、鶏卵2個(半熟)オートミール一合(牛乳一合)、コーヒ一碗、果物。

午前9時~11時:読書又は音読、聴取、接客、筆硯、中食(この三カ年来、自発的に廃止。紅茶、菓子。たまたま午餐会などに臨まれる時は僅かにスープをとられるだけである)

午後5時~6時:帰邸

午後6時~7時:夕食、飯二碗、吸物一碗、魚一皿(塩焼、煮魚、刺身、酢の物、あるいはテンプラなど、肉類は稀に用いられる)、野菜一皿(ナス、大根、サトイモなど)、果物。

午後7時~10時:読書(音読、聴取)なんと毎日3時間の読書を続けていた

午後10~11時:就寝(昼寝は取らず。多少の発熱くらいでは端座して静養される。)

以上、高齢にあっても規則正しく、栄養に配慮された食生活を心掛けていた。

渋沢は明治27年11月、顔面に癌を発症したが、高木兼寛により手術を受け、快癒した。その後も中耳炎、肺炎などで高熱を発することがあったが、そのたびに高木の診療でことなきを得た。だが、昭和6年腸閉塞に罹患、診察の結果それが直腸がんであることが判明した。渋沢はこの年齢での手術を拒否したが、医師たちの説得で自宅で手術を受けた。手術は成功したが、肺炎を起こし、昭和6年11月11日に91年の生涯を閉じた。葬儀は青山斎場で行われた。まだ自動車が普及していないこのときに、千五百代の車列が並び、青山から谷中の墓地まで四万人を超す人々が参列して追悼の意を表した。

  • 渋沢と福沢との比較

渋沢と福沢と類似する点が多くみられる。人間は全て平等であるべきことを、若いときから身を以て感じ、西欧にそれを学んだ。共に徳川幕府に仕えた経歴があるが、官尊民卑の風潮を嫌い、官職を離れて福沢は学問で啓蒙思想を説き、渋沢は資本主義の導入と社会事業で公共に貢献した。両親、親戚に学者が多かった。母親は共に慈愛に満ち、貧乏人を助けた。人材の育成の努め、その門から多くの俊秀が輩出した。医学に関しては、福沢は北里の研究を支援し、慶應義塾大学に医学部を創設した。渋沢は高木を助け、慈恵会医科大学の創立に貢献した。ドイツ語の官学に反し、共に英語により教育した。私利私欲がなく、謙虚であり、公共に尽くすことを信条とした。沢山の著書を残したが、いずれも平易で分かりやすく書かれてあった。

ただ異なる点は、福沢が洋魂洋才を信条とするのに対し、渋沢は士魂商才で論語と算盤の哲学に徹したという点にあった。渋沢は息子らに「俺がもし一身一家のためだけに富を積もうと思ったら、岩崎や三井に決して負けはしなかったろうよ。これは決して負け惜しみではないぞ」と言っていたという。

渋沢は福沢について次のように述べている。

「福沢先生は実に生きた学者であって、旧来の空漠な意見を持つ方ではない。特に先生が極力商工業、実業界の活動を主張され、実業界の人と政治界の人は同列であるとの主張は同感で、先生の知恵と優れた才能に感嘆していた。ただ一つ違うのは、私が『忠孝は人の根本』という疑念のない主義を持っていることである」

渋沢には、妻以外に何人かの女性がおり、庶子も多かった。福沢は女性を尊敬したが、渋沢の説くところ色欲抑制はない。明治の頃は、こうした風潮があったが、渋沢もその例外ではなかった。ただ教育、就職などには配慮した。

渋沢の親族からは、学者、音楽家、芸術家などを輩出したが、実業家はいなかった。孫で渋沢家を継いだ渋沢敬三は、戦時中、心ならずも日銀総裁となり、戦後は大蔵大臣を務めたこともあったが、利殖とは無縁で、柳田国男らと民俗学という学問の発展に尽力した。戦後、米軍が三菱、三井などの財閥を解体したが、渋沢には財閥と名の付く資産がなかったという。

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を1904年に著し、プロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の精神に適合していたという。欧米ではキリスト教という宗教の伝統があるが、我が国ではこうした社会奉仕を理念とする宗教はない。儒教は武士の教えであった。渋沢は論語をプロテスタントと同様に、庶民が生きるための哲学とした。

アメリカの経営学者、ピーター・ドラッカーは渋沢のことを、「経営の『社会的責任』について論じた歴史的な人物のなかで、彼の右に出る者を知らない」と評した。

渋沢の時代と違って、現在では年金、社会保障などの制度が発達し、福祉や医療の充実が図られてきた。だが、政治家、役人、企業などのトップにあるものの倫理観は、実にお粗末で、寒心にたえない。上に立つ者は、常に渋沢のようなきびしい自己規制と倫理観がなければならない。

明治維新が始まってから、百五十年に達する。明治の偉人として西郷、大久保、伊藤などの政治家の功績のみが称揚されるが、福沢と渋沢のような民間にある巨人を忘れてはならない。故きを温ねて新しきを知る。この二人の生き方は、時代を越えて常に範とすべきである。

小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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