先人たちの「健康長寿法」とは?(七人目)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●内村鑑三 (1861-1930) 69歳 日本的キリスト教による思想家

この世に生を受けたものは、誰しもこの愛する国をよりよいものとして後世に残したい。

その場合、何を残したらよいか。金か、事業か、思想・文学か・・・・

内村はこれらを必ずしも否定していない。だが誰でもできるもの、それは

「勇ましい高尚なる生涯」

であるという。この主張はまさしく「健康長寿法」の「生き方」そのものである。

内村鑑三という人は、その波乱万丈の生活を一貫して、自分自身の信ずるキリスト教で日本という自国の変革をめざした思想家であった。

1.不敬事件と「基督(キリスト)信徒の慰め」

1890(明治24年)年1月9日のことであった。その日、内村が勤務していた第一高等中学校(一高 後の同大教養学部)では、「教育勅語」の奉読式が施行された。前年の10月30日には、明治天皇による「教育ニ関スル勅語」が発布されていた。

学校側は、この日、教師と生徒に勅語に帰された明治天皇の「睦仁」に、低頭することと定めた。低頭とは最敬礼を意味する。だが内村は少し頭をさげただけであった。これが天皇に対する不敬に当たるとして、学校の教師、生徒は、挙げて内村を非難したのである。

基督教徒の教師は、内村を含めて三人いたが、他の二人は欠席していた。内村の態度は天皇への不遜を表すとして新聞でも大きく報ぜられ、人々は内村を不敬漢、国賊として非難を浴びせた。内村の行為は、別に法に触れたわけではなかったが、木下校長は内村に再度拝礼させるということで、事態の収拾を図ろうとした。だがその頃、内村はインフルエンザで重篤な状態にあった。そのため代わりに同じキリスト教徒の木村駿吉が礼拝した。結局、内村は辞職を迫られ、木村までも退職することになった。日本基督協会の植村正久は、礼拝すること自体に反対し、この事件を非難した。

内村自身は、別に教育勅語に反対したわけではない。だがそれは礼拝するものではなく、実践するものと解していた。また人並みに皇室への敬意を抱いていた。天皇の署名に最敬礼を迫るなどということは、現在では考えられない。だがこのような小さな事件が針小棒大に尾ひれがついて、新聞・雑誌で国中に知れ渡った。それは旧来の封建制度とキリスト教による新しい思想への衝突を意味する。法を犯したわけではないのに、国賊としての内村の名前は、日本中に知れ渡った。

明治23年から24年にかけては、世界的にインフルエンザが猛威を振るった。我が国でもこれにより肺炎を起こして死ぬものが、続出した。内村も感染して発症し、一時は重症となって意識を失うほどであった。妻加寿子は献身的な介護を行い、幸いにして内村は危機を脱することができた。だが、今度は加寿子がインフルエンザを発症し、それが元で命を失った。

加寿子は内村の幼馴染の高崎出身であり、鑑三より9歳年下であった。内村は彼女を深く愛していた。彼女は罵声を浴び、石を投げられる鑑三をかばい、己を忘れてひたすら夫の看病に当たった。キリスト教徒ではなかったが、最後には鑑三によってキリスト教に帰依したという。

内村の悲嘆は大きかった。「生命は愛なれば、愛するものを失せし余自身の失せしなり」と、自分が死んだと同じだという。苦悩、後悔に打ちひしがれ、神を呪い、祈りを忘れ、断腸の思いにあった。

喪われた妻を求めて、内村は終日、妻の墓にいた。あるとき掃除をし、花をたむけ、神に祈ろうとした瞬間であった。細い声が聞こえてきた。「お前はなぜ愛するもののために泣くのか。お前は彼女に報いる機会が永遠に失われたと感じているが、そうではない。彼女は消滅したのではない。今も生ける死者とて実在しているのである」。「彼女がお前に尽くしたのは、お前より何か報いを得るためではない。むしろお前が内心の真実を顧み、全身全霊をもって神と祖国に尽くさせるためである」

内村は、翻然として悟るところがあった。『基督信徒の慰』は、彼の処女作であり、また精神的

自叙伝でもある。それはこの不敬事件に始まり、愛妻の死去に至る貧窮のどん底からの立ち直りという魂の記録である。次の6章から成る。

  1. 愛するものの失わせし時
  2. 国人に捨てられし時
  3. 基督教会に捨てられし時
  4. 事業に失敗せし時
  5. 貧に迫りし時
  6. 不治の病に羅りし時

内村の文章は名文である。それは直接、文語文で読まないと、分からない。現代語による翻訳では、作者の真意を逃しかねない。いずれにしても内村は、これから著述業としての道を開いた。また自身の独立した確固たるキリスト教信仰を体得した。それは従来の教会、牧師、儀式とは無縁であり、結果として無教会となった。

2.後世への最大遺物

内村鑑三の数多ある著書の中で、非キリスト教徒が最も親しめるのは、『後世への最大遺物』と『代表的日本人』である。後者は英文で書かれてあるものの翻訳であるが、キリスト教というよりも、偉人伝である。この両者には共通した理念がある。それは

「如何に生きるか」

という万人が抱く課題へ示唆を与えるという点である。

『後世への最大遺物』の講演は1894(明治27)年7月16日・17日の両日、箱根における第六回基督教青年会(YMCA)夏季学校において実施された。司会は海老名弾正(後の同支社大学総長)で、会場となったのは、当時の石内旅館の百二十畳の大広間である。聴衆は99名、会場は芦ノ湖に近く、対岸に富士山を望む景勝の地にあった。このとき内村は33歳、不敬事件から3年で生活も不如意であった。

内村の講演はユーモアに富んでいた。次のように始めている。「ここで私が手を振り足を飛ばしまして、私の血の熱度を加えて、諸君の熱血をここに注ぎだすことは、あるいは私にできないことではないかも知れません。しかしこれは私の好まぬところ、また諸君もあまり要求しないところだろうと私は考えます。それでキリスト教の演説会で、演説者が腰を掛けて話をするのはたぶんこの講師が嚆矢(こうし)であるかも知れない(満場大笑)」と、まず駄洒落で笑いを取って会場の雰囲気を和やかにしている。

講演の目的として、次のように述べている。

「私に一つの希望がある。すなわち私に50年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この美しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに何も残さずには死んでしまいたくないとの希望が起こって来る。私は後世の人が私を褒めてくれたり、名誉を残したいというのではない。ただ私がこの地球をどれほど愛し、どれだけこの世界を愛し、どれだけ私の同朋を思ったかという記念物を、この世に置いて行きたいのである」

ここには神、イエスなどが出てこない。まずくるのは地球であり、自然であり、国である。自然を愛するナショナリストの内村の気持ちがよく出ている。

ところで後世への最大遺物として、内村はまず、金、事業、思想・文学の三つを挙げて、これを評価した。

金は誰でも欲しい。だが莫大な金を得てもその使い方が問題である。米国のジラードは、すべての遺産で米国中に孤児院を造った。ただしキリスト教は、その中に入れなかった。ピーボディは黒人のための教会を造った。

事業では特に土木事業が重視される。箱根の湖に隧道を造り、その水を麓の田畑に引いて農業を助けたのは、名も明らかではない二人の百姓兄弟であった。リビングストンはアフリカで永年伝導に当たったが、重要なのはアフリカの地図を作製することと知り、探検家として大変な苦労をして、アフリカのために大きな貢献をした。

文学としては、新約聖書に勝るものはない。日本では頼山陽の『日本外史』が幕末の志士によく読まれた。英国の哲学者ジョン・ロックの『人間知性論』は、フランス革命に大きく貢献した。ジョン・バンヤンは学問がなく、読むのは聖書だけであったが、彼の書いた『天路歴程』は信心の記録として広く読まれた。

だが、一般の人は、金もなく、事業も文学もできない。どうしたらよいか。内村は言う。

「それならば最大遺物とは何であろうか。私が考えてみますに人間が後世に残すことのできる、そうしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかとならば

勇ましい高尚なる生涯

であると思います」。

「この世の中は、これは決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中あることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えを、われわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります」。

(※コロナ禍の今を生きる現代人に叫びかけてほしいと言葉であると切に思います。)

内村の熱のこもった、たたみかけるような弁舌が、静まり返った聴衆に響きわたるような光景が目に見えるようである。

こういう生涯を送った人として、内村はカーライルと二宮金次郎を挙げている。二宮は、代表的日本人五人のうちの一人でもある。

カーライルは内村が最も好む人物で、しばしば引用されている。我が国でも戦前は、カーライルの著作がよく読まれた。『英雄崇拝論』や『衣装哲学』で、その中でも『クロムウエル伝』は、内村が最も推奨すべき書であった。

そのカーライルが長年にわたって苦心して書き上げた『フランス革命史』の原稿を、友人が見て借り受け、それを友人にまた貸しした。ところがその貴重な原稿を朝、下女がストーブの火つけ燃料として燃やしてしまった。カーライルはこれを聞き、十日間くらい呆然として、何もできなかった。猛烈に腹が立った。だがこの艱難に耐え、再び筆をとって革命史を書き直したという。

内村は、最期に次のように述べている。

「後世のために、私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた。この心がけをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯はけっして50年や60年の生涯にあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽をふき、枝を生じてゆくものであると思います」。「われわれに後世に人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは、真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを、後世に残したいと思います」と結んでいる。

これは平凡で誰でもできるように思える。だがよく考えると、実際は容易なことではない。内村は、この講演に当たって、去る三年間の苦難、不敬事件、愛妻の死、世間からの非難、病、無職など、『基督信徒の慰』にあるような四面楚歌の状況が、脳裏をよぎったに違いない。そしてこれらを克服して、ようやくこうして大勢の若者に対し、身に染みわたるような教育講演を行うことができたのである。この講演の記録自体が、後世への最大遺物となっている。

この講演記録は三十年後の大正14年に改版になった。そのとき、内村はこれを読んで多くの人たちが志を立て、キリスト教徒になるもの、ならないものなど、さまざまに自分の人生を開拓してその生涯を生きたことを、神に感謝している。そしてそれは現代まで続いているのである。

3.代表的日本人

『代表的日本人』は、1894(明治27)年に刊行された。

それは『後世への最大遺物』の講演が行われたときの四か月後である。初めは、『日本及び日本人』(Japan and the Japanese)という著書であった。だが、明治43年に、巻頭の序論と末尾の小論文を除いて改題され、新たに出版された。『Representative Men of Japan』がその正式名である。この書は、ハリス夫人に献呈されている。

出版の経過からわかるように、この作品は『後世への最大遺物』と密接に関連している。また英文で書かれており、欧米へ、日本とはいかなる国かを紹介するものとなっている。新戸部稲造の武士道も英文で書かれているが、その出版は1900年で、『代表的日本人』の六年後であった。

この著書は英文で書かれてあるので、我が国ではいくつかの翻訳本が出版されている。

代表的日本人として選ばれたのは、次の五名で、それぞれ副題がつけてある。

西郷隆盛 新日本の創設者

上杉鷹山 封建領主

二宮尊徳 農民聖者

中江藤樹 村の先生

日蓮上人 沸僧

これらはいずれも『後世への最大遺物』で、内村が重視した「勇ましい高尚なる生涯」を送った人物であり、その典型ともいえる。

この五名の日本人に通じるものは、我が国古来の武士道である。日蓮、二宮は武士ではないが、その生涯は武士道と同じである。内村は、宗教のない我が国の道徳の根幹をなすものは、武士道であるとした。キリスト教は神の道であるが、武士道は我が国固有の人の道である。それは公共に対する無私なる献身であり、義の精神である。

侍の子として育てられた内村は、人の道としての道徳の基盤を、武士道に置いた。彼にとってのキリスト教は、武士道の上に成り立つ普遍的な神の道であった。それは接ぎ木の宗教であった。そこに西欧からの模倣ではない、内村独自の日本的キリスト教があった。

彼は、自身の宗教には二つのJがあると述べている。一つは神(Jesus)であり、他の一つは日本(Japan)である。西欧にまだ知られることの少ない日本というこの国を、彼はこよなく愛し、世界に向けて紹介したのである。

『代表的日本人』は英語で書かれたものだが、米国よりもヨーロッパでよく読まれた。英語からドイツ語、デンマーク語にすぐ翻訳された。ドイツ語訳に当たったのは、ヘルマンヘッセの父のJ・ヘッセであった。フランスのクレマソー首相はこれを読み、できれば内村に会いたいものだと言ったという。

5.内村鑑三の人物像

内村鑑三は、身長175センチメートルと当時としては背が高く、長すね彦と呼ばれた。美声であり、雄弁にたけ、その演説は人々を魅了した。札幌農学校時代は、常に主席であり、頭脳が明晰であった。単なる宣教ではなく、歴史、地理、生物学などにわたる広い知識があり、魚類学に詳しく、科学者としの一面があった。何よりも彼は、教えるという教師の職業を好んだ。

彼は、演劇、小説を嫌った。だが不遇であった京都における三年間に、多くの著作を著わした。いずれも名文であり、広く人々に読まれた。何よりも「不敬事件」で、彼の名は世間に知れ渡っていた。満朝報に移ってからは、社会時評、文明批判に健筆を振るった。論争を厭わなかった。

東京帝国大学哲学科の井上哲次郎教授の国体護持の思想には、激しく対立した。作家の高山樗牛は、内村を結局ダンテのような詩人であるとして、社会改革の具体論がないと指摘した。これに対し彼は、次のような社会改革論を主張した。

1.軍備を縮小して教育を拡張すること

1.華士族平民の制を廃して、すべての日本市民と称すること

1.軍人を除くの外は、位勲の制を全廃すること

1.府県知事郡長を民選となし、完全なる自治制を地方に施すこと

1.政治的権利より金銭的制限を取り除くこと

1.上院を改造し、平職以の者をして議員たるを得ざらしむること

1.藩閥政府の余孽(よげつ:滅びたものの子孫)を掃討すること

これらの意見は当時にあっては、実行不能であったが、現代ではほとんどが現実のものとなっている。すぐれた先見の明があったのである。

内村は、日清戦争を義戦として加担したのを悔い、日露戦争には徹底して非戦論を主張した。そのために幸徳秋水、堺利彦らと共に、『万朝報』を辞職した。だが旅順港での日本海軍大勝利のときには、大声で「帝国万歳」と三唱したという。そのあと自分でも矛盾した人間であると付け加えた。日露戦争が勝利に終わり、国民の意気が大いに上がり、非戦論者の立場が悪くなったときに、内村は却って意気軒高として次のように述べた。「日清戦争は、その名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争はさらに大いなる日露戦争を生みました。日露戦争もまたその名は、東洋平和のためでありました。然しこれもまたさらに大なる東洋平和のための戦争を生むであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります」

内村の予言は的中した。日本の未来をこれほど的確に述べた思想家は、富国強兵を国是とする明治にはいなかった。

内村はその特異な風貌、巧みな演説、多くの著作、ジャーナリストとしての寸鉄人を指す社会評論、無教会の日本的な独自のキリスト教信仰、該博な知識、英文による国際感覚などを備え、若者を魅了した。

小説嫌いの内村は、却って多くの作家に影響を与えた。小山内薫、国木田独歩、有島武郎、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、長与義郎など、特に志賀直哉で代表される雑誌『白樺』の同人に内村の思想の影響が色濃く見られる。内村の門下生となったわけではないが、正宗白鳥は内村に

心酔し、誰よりも熱心に講演を聴いた。70歳の時に書いた『内村鑑三—如何に生くべきか—』はすぐれた魂の遍歴を著している。

しかしこうした作家は、終局において内村のもとを去っている。関節的には太宰治も、内村の影響を受けた。だが有島、太宰は情死を遂げた。

内村には、塚本虎二、藤井武、三谷隆正などのすぐれた弟子があった。彼らは、矛盾に満ち、直情径行の内村鑑三と何回も衝突し、破門されている。だが内村没後も、その師を慕い、終生離れようとはしなかった。

「不敬事件」のあった一高、東大にも、内村を慕う多くの学生がいて、柏会などのクラブを造っていた。矢内原忠雄、南原繁、前田多門、田中耕太郎、鶴見祐輔、天野貞祐などが挙げられる。中でも岩波茂雄は、岩波文庫の中にその著作を多く取り入れて刊行し、その思想の普及に努めた。

5.内村祐之について

内村祐之は、鑑三の子息であり、精神科医であると共に野球の名手として知られている。

1897(明治30)年11月に生まれた。同朋としては、姉ツル子がいたが、若くして亡くなった。鑑三の教育方針は、清教徒的精神主義の枠の中で、食前の礼拝、日曜学校、金曜日にキリスト教集会に出ることなどを守ること、長ずるに及んでは禁酒禁煙、門限午後10時、日曜日は安息日を守ることで、その他は自由であった。キリスト教の信仰を迫るということは、全くなかった。

祐之は、独協中学から一高へ進学したが、中学時代から野球に熱中した。一高では野球部に入り、初めて三校と対戦して、大敗した。だがそれ以後、投手としての技を磨き、翌年には三校に雪辱し、さらに早稲田、慶応、学習院とも対戦して三振の山を築き、一高に内村ありとして名が広く知られるようになった。東大医学部を卒業した後、精神科医となり、松沢病院勤務を経て、30歳で北大の助教授に就任した。北大の前身は札幌農学校であり、若くして就任したのは、宮部金吾教授の斡旋があったものと思われる。祐之はすぐにドイツのミュンヘンに留学し、クレペリンに師事していくつかの論文を書き、二年後、帰国して北大教授となった。

鑑三は自分の息子が、一高では野球で名をあげ、若くして北大教授に就任したことを喜んだ。それは札幌農学校や不敬事件などにおける、若いときに苦難の過程を代償して余りあるものであった。祐之は鑑三に逆らわない孝行息子であった。

その祐之から見た父鑑三の最も貴重な性格の一面は、「真理に対する計り知れないほどの深い憧憬と敬虔の念」であったという。

熱烈な「真理の憧憬者」という言葉が、父鑑三の全貌を最もよく表現するものであり、天然は最大の関心事であった。そこには真理そのものが存在したからである。鑑三は直情径行で、よく人と衝突したが、祐之から見ると、実際は鑑三ほど、人の言葉に耳を傾ける、弾力に富んだ、自由な人格はいないという。

祐之は、森羅万象の偉大さを知るたびに、全能の存在、神の存在を信じたが、キリスト教における贖罪、復活、十字架などを、信ずることはできなかった。また鑑三から、かつて一回も信仰不足をたしなめられたり、自分の事業を継げと強制されたことはなかった。だが鑑三が亡くなると、時をおかずに『内村鑑三全集』の編集を提案し、実施した。また、東大医学部に病理解剖を委託し、その脳を医学部の標本館に保管した。

東大における内村祐之教授による精神科の臨床講義は、患者との巧みな会話があり、名講義であった。82歳で亡くなったが、東大名誉教授、学士院会員であるとともにプロ野球の初代コミッショナーであった。葬儀は、無宗教で行われた。

内村鑑三の墓は多磨霊園にあるが、墓石には次の言葉が刻まれている。

I for Japan 我は日本の為に

Japan for the world 日本は世界の為に

The world for Christ 世界はキリストの為に

And All for GOD すべては神の為に

小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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