先人たちの「健康長寿法」とは?(三人目)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●徳川家康 (1542-1616)75歳 健康長寿の武将

徳川家康は、七十五歳で亡くなった。現在に直せば九十歳くらいになろう。戦国時代、これだけ長生きした武将はいない。この頃の武将の寿命は、50歳くらいであった。上杉謙信48歳、武田信玄52歳、豊臣秀吉62歳。

ところが家康は75歳まで生きた。関ヶ原の戦いを制した時は59歳だが、大阪冬の陣に73歳で臨み、74歳で大阪夏人に勝利を収めて天下統一を果たし、翌年の75歳でこの世を去った。家康の長生きが、270年に及ぶ平和な江戸時代につながった。

家康の健康法とはどんなものであっただろうか。

家康は苦労人であった。1542年、岡崎城に生まれた。幼少時から人質となって今川義元のもとで育った。その後、信長に従い、ついで秀吉の家臣となった。若いときは、剣術、馬術、弓術、水練術などに励んだが、とくに泳ぐことと走ることを重視した。それは敵から逃れることの習練である。実際、家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄の追手から浜松城まで必死に逃げた。だが家康は逃げることにより、多くを学んだ。信玄の軍事、民政のやり方を尊敬し、学んだのである。

家康には、信長や秀吉のような華やかさがない。大河ドラマの「黒田官兵衛」や「真田幸村」でも、いずれかといえば悪役であった。我慢強く、倹約家で吝嗇といわれた。

彼の大きな特徴は、次の三つの点にあると思われる。

  1. 常に学び、企画し、実践した。
  2. 食事と運動につとめた。
  3. よい師と家来に恵まれた。

家康は好奇心に富み、すべての学問に興味を抱いた。文武の道というが、文を以て天下を治めたのは家康のみである。それは四書五経から儒教、仏教、歴史、神道をはじめ、あらゆる領域に及んだ。北条や源頼朝の幕府を研究した。

特に強い関心を示したのが医学である。それは本草学といわれるもので、内外の薬学書の本草綱目や話剤局方を読破し、その知識は専門家も驚くほどであった。家康は若い時から医者には誤診が多く、患者を死なせた症例を経験していたので、医者を信用しなかった。自らの本草研究で薬研を用いて、八味地黄丸という薬を自分で処方し、日常的に服用していた。常に十数段の引き出しの付いた薬箪笥を持ち、そこに家康自身が処方した薬を入れていた。

家康は耳学問で知識を習得した。医師、僧侶、学者などに講義をさせ、それをじっと聞き入った。記憶力は抜群であった。また、争乱で散逸していた史料や文学書類を各地に求め、それらを編纂、筆写させて保管した。

家康の学問を支えたのが、藤原惺窩とその弟子の林羅山である。朱子学が主だが、その他「孔子家語」「貞観政要」「吾妻鑑」などを学んだ。蔵書の種類は千余部で数万冊を数えたという。そのため駿府城内に駿河文庫という図書館を設立し、林羅山が管理した。林羅山は頭脳が優れ、博学で法規、行政に詳しかった。75歳まで生き、家康から四代将軍まで仕え、江戸昌平黌の基礎を固めた。我が国初めての大学である。家康はまたウィリアム・アダムス(三浦安針)から数学、幾何学、地理学などを学んだという。

家康は戦闘のための「武術」を、人格形成のための「武道」という言葉に変えた。

また、朝鮮渡来の印刷技術から駿河銅活字を鋳造し、日本初の印刷出版を行った。

こうしてみると、徳川家康という男は、その時代に稀な知識人であり、学者でもあったと思われる。彼は信長、秀吉などの華やかさを嫌った。生活は質素で茶の湯などもたしなまなかったが、知識の習得には熱心であった。

家康の第二の特徴は、その食事、運動などの健康法である。

毎日の食事は麦飯、豆味噌、納豆などで、一汁一菜であった。

麦飯は栄養価が高く、ビタミンB1やカルシウム、カリウムなどのミネラルがあり、食物繊維は白米の17倍も含有されている。

余談ながら日本の明治期陸軍の主食は、白米であった。そのため日清・日露の戦役で3万人に及ぶ脚気による心不全死亡を出した。その責任は軍医総監の森鴎外の方針によるものであった。これに対し、海軍では高木兼寛の対照比較試験で麦飯が優れていることを実証し、脚気による死亡はほとんどなかった。

家康が好んだ豆味噌は八丁味噌として三河名物であり、納豆も発酵食物として栄養素が高い。

家康の趣味は鷹狩りである。それは山野を駆け回り、自然に接し、鷹と交流する。当時にあっては、この上ない健康維持のスポーツといえよう。鷹狩りによる適度の疲労は食欲を増し、熟睡を招く。それは色欲の抑制にも効果があった。

第三の特徴として、よい師が常に家康のそばにあったということが挙げられる。幼少時には駿府近くの臨済寺和尚の雪斎に学んだ。雪斎は物知りで軍略のことまで教えた。

成人となってからは安土桃山時代から江戸初期の天台宗の僧侶であった南光坊天海が家康の師となった。天海は家康没後も33年生きて108歳で歿したという驚異の長生き僧侶であった。博識で家康の知恵袋として知られ、家康の天下取りに大きな役割を果たした。天海の養生訓としては、次の短歌に表れている。

「気は長く 勤めは固く 色うすく 食細うして 心ひろかれ」

家康は家臣にも恵まれた。徳川四天王といえば酒井忠次、本多忠勝、

榊原康政、井伊直政であるが、彼らを中心とした三河武士の集団がよく家康を補佐した。

家康は大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし、その翌年の元和2年4月17日にこの世を去った。正月に食べた鯛の天ぷらの食あたりが問題とされたが、亡くなったのは4月でおそらく死因は胃がんと推定されている。診断に当たった医師片山宗哲の意見を退け、彼を長野に追放した。自分で最期を悟り、一切薬を服用しなかった。

司馬遼太郎は「覇王の家」という作品において徳川家康のことを書いたが、その健康法について次のように述べている。

家康が医師としてきわめてすぐれていたことは、かれが予防医学や保険医学の思想のないころに、それを思いつき、みずからの肉体を以て実行したことであった。「家康は、臨終にあたっていっさい薬を用いようとしなかった。それは一個の悟りに達していたというよりも、元来がそういう男であった。かれは自分という存在を若いころから抽象化し、自然人というよりも法人であるかのように規定し、いかなる場合でも自己を一種放下したかたちで外界を見、判断し、動いてきたし、自分の健康についてもまるでそれが客観物であるかのように管理し、あたえるべき指示をかれ自身がかれの体に冷静にあたえてきた。家康の深奥に秘密があるとすればこのことであり、かれの一代はこのことから成立しているといってよく、さらにはどうみても英傑の風姿をもたず、外貌も日常もそして才能もごく尋常な人物でしかないこの男が、その深部においてきわだって尋常人と異なっているところはこの一点であり、この一点しかなかった。その一点がその生命の最後まで作動していて、このあたりで薬はもう無用だろうとおもうと、二度と服用しなかったのである」

非常に辛辣で的を射たような意見である。司馬遼太郎は、270年つづいた江戸時代は功罪相半ばするという。文化文政時代という特異な文化や、教養の普及という点で代表されるように功も大きかったかもしれないが、天文年間から慶長年間にかけての日本人に比べ、同民族と思えぬほどに民族的性格が矮小化され、奇形化されたという点では、罪のほうにはいるかもしれない。

松本清張は、江戸300年の基礎を築いた家康について次のように述べている。「家康は秀吉から天下をうけついだような形だが、その性質はまったく違っていた。家康は、信長、秀吉の死後をみてどんなに個人の力が弱いかを知った。それで家康がつくったのは、組織であった。徳川幕府が300年間もつづいたのは、組織制度の力であった。そのことを考えついた家康の頭脳には、他の戦国名将のだれもがあしもとにも及ばない。家康の教訓をみると、それが、ほんとうの体験からわりだしてあるだけに味わい深い。家康は次のように述べた。

「人に一生のなかには、三つのかわりめがある。まず17~18歳のときは、友だちの感化でわるくなることがある。つぎに、30歳ころになると、ものごとに慢心して、老巧のものをばかにする心がおきてくる。最後に、40歳の時分には、万事、いままで経てきたことばかりふりかえって、将来をみようとはせず、積極性がとぼしくなる。この三度のかわりめに注意すべきで、このかわりめにあたって、身をあやまらぬものが偉人なのである」

偉人とは出世するばかりが偉人ではない。こういう、平凡な、何でもないことに気をつけて、立派にこの世に処していくのが偉人であろう。こういう言葉など、家康独特のもので、信長・秀吉にいえることではない」

松本清張は生まれが貧しく、ろくに教育も受けていない。戦時中は衛生兵であった。戦後、独学でやっと芥川賞受賞の小説を書いて、世間に認められた。家康の若いときの苦労を身にしみて感じたのであろう。徳川家康の有名な遺訓は次のようなものである。

人の人生は

重荷を負うて、遠き道を行くがごとし

急ぐべからず

不自由を、常と思えば不足なし

心に望みおこらば、困窮したる時を思いだ出すべし

堪忍は、無事のいしずえ

怒りは、敵と思え

勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、

害、其の身に到る

己を責めて、人を責めるな

及ばざるは、過ぎたるに優れり

含蓄のある言葉である。

この中で忍耐と負けることの価値を強調していることは重要である。明治期以来の我が国の軍隊は、負けることの価値をおろそかにした。それが先の大戦による惨憺たる多くの死者につながった。現代人の忘れている「修養」という言葉がここにある。

小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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