先人たちの「健康長寿法」とは?(六人目前編)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●渋沢栄一(1840-1931)91歳9か月 我が国資本主義の父(前編)

天保から江戸時代最後の慶応を経て、明治、大正、昭和にわたって生き抜き、昭和の初めに没した。現代でも稀な長命といえよう。

渋沢の第一の業績は、わが国に資本主義を導入し、それを発展させたことにある。実業家として、その名は広く知られている。第一国立銀行をはじめ、設立にあたった企業は五百以上にのぼった。

第二の仕事は、福祉事業である。養育院をはじめ慈恵会病院、日本赤十字など、多くの慈善事業を手掛けた。また教育にも熱心であった。

第三には、中国、米国などとの積極的友好活動を築くための活動が挙げられる。ノーベル平和賞の候補に二回も挙げられたという。

「雨夜譚 (あまよがたり) 」は、渋沢が47歳半ばのときに、自分の過去を顧みて書かれた半生の自伝である。

渋沢には姉が一人いるが、その姉が病気になり、なかなか治らず、両親はじめ皆が心配した。そのとき、親戚の一人が、この病気は家に祟りがあるためだから、祈禱するのがよいと勧めて、三人の修験者が呼ばれた。その一人が「この家には金神と井戸の神が祟る。またこの家には無縁仏があってそれが祟るのだ」と横柄に言った。家族はこれを聞いて神妙になり、ぜひ祈禱をとお願いした。渋沢は初めから何か胡散臭いと思い、祈禱者に「その無縁仏の出た時は、およそ何年ほど前のことでありましょうか」と尋ねたところ、およそ5~60年前であるという。そこでさらに何という年号ですかと訊くと、祈禱者は天保三年の頃であると言った。天保三年というと、今から23年前になる。そこで渋沢は「天保3年というのは明らかに誤りだ。無縁仏の有無を明らかに知っておられるくらいの神様が、年号を知らないという訳はない筈だ。こういう間違いがあるようでは、まるで信仰も何もできるものじゃない」と詰り、満座の人々も興をさましたという。このとき、渋沢は15歳くらいの少年であった。幼少時から優れた合理主義の考えを持っていたことがよく分かる。

【略歴】

渋沢栄一は1840(天保10)年、武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市血洗島)に生まれた。生家は、農業、養蚕、藍玉商を兼ね、比較的裕福であった。父の市郎右衛門の代には荒物商や金融業まで営んでいた。だが家庭の躾は厳しく、栄一は5歳の時に、父から読み書きの教えを受けた。七歳になって、従兄の尾高惇忠に四書五経や日本外史などを学んだ。また体力つくりとして、神道無念流の剣術を習った。

16~17歳になると、父に代わって藍玉の商売を引き受けるようになり、商売の才能を現した。その頃、血洗島の領主の役人が、さまざまな理由で五百両、千両と御用金を割り当てて徴収するのに義憤を覚え、徳川政治の欠陥を身に染みて感じた。

そのうち伊豆の下田にアメリカのペルリが来航して、世間が騒然としてきた。渋沢は百姓というものの馬鹿々々しさを思い、22歳の時に江戸へ遊学、儒学や剣術を学び、また勤王の志士との交わりを持ち、尊王攘夷の志を抱くに至った。

故郷に帰ってから同志を集め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、長州と連携して横浜へ焼き討ちに向かうという試みを企画した。人数は69名が集まった。しかし同志のひとりで尾高惇忠の弟・尾高長七郎が、その無謀なことを懸命に説得し、中止させた。

渋沢は累が親族に及ばぬように、勘当のかたちで京都へ出た。そこで浪人となっていたところ、偶々旧知の幕府家臣・平岡円四郎に会い、その推挙により、一橋慶喜に仕えることとなった。

出仕後、「歩兵取立御用」という役目を与えられ、農兵募集に大手柄を立てた。慶応二年、慶喜が第十五代将軍となった。心ならずも幕臣となっていたので、自身の去就に迷った。そのとき、

慶喜から弟の昭武がフランスで開催の万博に出席するので、随行せよとの下命を受け、大いに喜び、徳川昭雄以下総勢29人の一員となってパリに向かった。万博後は、昭武の留学の世話という使命があった。

渋沢はこの洋行でさまざまなことを学んだ。その主なものを三つ挙げる。

第一は、官尊民卑の思想が全くなく、武家も町人も同格なことであった。陸軍大佐が銀行家と対等もしくはへりくだった態度をとっていたのに驚かされた。

第二は、株式組織による経営法である。大衆から金を集めて事業を起こし、その富を社会に還元する方式を学んだ。

第三は、ベルギーの国王レオポルド一世から、これからの国家建設には鉄が必要だから、ベルギーから鉄を買っていただきたいと、商人のような申し出を受けたことであった。

明治元年11月帰国、日本はすっかり変わっていた。徳川幕府は倒れ、明治新政府が誕生していた。渋沢は静岡藩から「勘定組頭」を任命されたが、これを辞し、明治2年2月、日本最初の株式組織となる「商法会所」を静岡に開業し、ある程度の成功を収めた。すると、これを知った大隅重信に説得され、10月に大蔵省の官僚となった。そこで度量衡の改正、簿記の導入、国立銀行条例制定などに関与したが、明治6年に大隅とともに退官し、民間にあって実業家としての道を歩むことになった。

渋沢の関与した事業は、第一国立銀行、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖など、多種多様で、その総数は五百を超えるという。渋沢は適材適所ということを、徳川家康から学び、適材を挙げて適所に置き、事業を推進した。だが、岩崎弥太郎、三井高福などのように、財閥を作らなかった。私利を図らず、公益を図ることを目的とした。

1912年には、アメリカで発行された外国人土地所有禁止法などによる日本移民排斥などについて、時事通信社などを立案して誤解を解き、老軀をいとわず、四回の渡米で日米関係の改善に奔走した。

2.実業家としての心構え、論語と算盤

渋沢は、実業家としての肝に銘じるべき四つの条件を挙げている。それは次のようなものである。

(1)その事業は、果たして成り立つものかどうか

(2)個人の利益とともに、国家社会の利益にもなるかどうか

(3)その事業が「時機」に適合しているかどうか

(4)事業が成立したとき、その経営者に適当な人物がいるかどうか

要約すると「数学、公益、潮流、人材」が柱となる。渋沢は経理の才能に富み、外遊時には徳川昭武はじめ随員のための会計に携わり、万事に手抜かりなく全員を帰国させた。「雨夜譚」の巻末には、付録として金銀流出入表など細かな数字がいくつも時系列に記録されているが、これは渋沢ならではのものと思われる。

渋沢は幕末から明治維新という激動の時代にいきたから、活躍の場があったと思われている。しかし渋沢に言わせると「社会の変化や政体の革新にぶつかり、これをどうすることもできず、まさに『逆境』の人になってしまった」そうだ。

これに対し、「渋沢栄一伝」を著した幸田露伴は、「渋沢は『時代の児』であり、時代をにない、形作った存在であった」とその冒頭に述べている。

明治には、森鴎外がよく和魂洋才という言葉を使った。これに対し、福沢諭吉は洋魂洋才で、旧弊の一掃を図った。一方、渋沢は士魂商才を唱えた。人間の世の中に立つには武士的精神が必要であるが、さらに商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。また士魂の養成には論語が根底になければならない。

こうして渋沢は生涯「論語と算盤」を信条とした。それは、明治6年5月、官職を辞して民間に生きるときに決心した。論語は幼いときから親しんできたが、それを独自の行動原理として生かしたのは、渋沢が最初である、渋沢は論語について次のように述べている。

「論語は決して難しい学理ではない。難しいものを読む学者でなければ解らぬというようなものでない。論語の教えは広く世間に効能があるので、元来解り易いものである。それを、学者が難しくして、農工商などの与り知るべきもので無いというようにしてしまった。これは大いなる間違いである。かくの如き学者は、たとえば喧しき玄関番のようなもので、孔夫子には邪魔者である。孔子は決して難しやではなく、案外捌けた方で、商人でも農人でも誰にでも会って教えてくれる方である。その教えは実用的で卑近である」

渋沢には『論語講義』という著書がある。論語の現代語訳は、その多くが中国語学者であり、字義の解釈に関心が集中している。ところが渋沢の講義は、語句の解釈が自己流であり、自身の経験や昔の譬えからの引用に富み、若者に対する教えなどもあって、実に面白い。これを読むと、渋沢の人生哲学「論語と算盤」がよく理解できる。

3.渋沢の社会事業

幕末から明治にかけては、まさしく社会の激動の時代であった。この影響を受けて貧窮に陥り、乞食となった民衆が巷に溢れた。渋沢は「論語と算盤」の立場にあって、一方では事業を起こすとともに、他方では社会事業で貧窮にある人たちの救済に当たった。

欧米には企業の社会的責任CSR(corporate social responsibility)という言葉がある。それは企業が倫理的責任から事業活動を通じて、自主的に社会に貢献する責任のことである。我が国の企業には、こうした責任感がない。渋沢のみが、自身のCSRを実践した。

渋沢に手掛けた教育事業は、1875(明治8)年、商法講習所(一橋大学)、1886(明治19)年、東京女学館、1901(明治34)年、日本女子大学校、1917(大正6)年には理化学研究所の創設などがある。

社会事業としては、1908(明治41)年、中央慈善協会(全国社会福祉協議会)の設立、日本赤十字社、東京養育院、聖路加病院、癌研究所、滝乃川学園の設立に尽力した。

ここでは、高木兼寛とともに東京慈恵会と自ら院長となった養育院の二つを考察する。

  • 東京慈恵会の創設

高木兼寛(1849-1920)は、慈恵会医学大学を創立した医師であり、また優れた学者であっ

た。渋沢は高木を尊敬し、また自分の主治医とした。

高木は鹿児島で英国の医師ウィリアム・ウィリスに医学を学んだ。さらに東京の海軍病院、海軍軍医学校で英医アンダーソンに師事していたが、英国留学の機会があり、セント・トーマス病院医学校で学び、数々の優秀賞、名誉賞を受賞して卒業、5年間の留学を終えて明治13年に帰国した。

高木は西欧になく、我が国で多数の患者が見られる脚気につき、海軍軍医として比較対照試験を行い、それが白米に由来することを明らかにした。脚気は鈴木梅太郎により米ぬかの中の成分の欠如に起因し、白米にはそれがないことが立証された。小麦を主食とする欧米には見られない。日清・日露の戦役で、海軍には脚気死はみられなかったが、森林太郎(鷗外)軍医の陸軍では多数の死者を出した。ビタミンB1の欠如によるものである。

高木は英国で経験したような優れた病院、医学校を本邦にも設立する意欲に燃えていたが、彼が見たのは医学界の風潮が、多くの貧しい庶民に冷たく、そのための病院がないことであった。そこで松山棟庵、戸塚文海らと計らい、恵まれない庶民のための病院「有志共立東京病院」を創設した。松山は慶應義塾で福沢の下で医学を学び、我が国で初めて英語の医学書を翻訳した。戸塚は後の海軍軍医である。彼らは患者中心の医療変革を志し、明治14年2月、慈恵病院(施療病院)の設立趣意書を作成し、各自千円を拠金して寄付を募り、二万円集めた。総裁には有栖川宮仁親王を奉戴し、当時経営不振に陥っていた東京府立病院(場所は現在の慈恵会医大キャンパス)を二千四百六十二円で譲り受けた。

1882(明治15)年8月、有志共立東京病院で診療が始まった。無料ということもあって患者は常時超満員で、医員らは多忙を極め、運営も困難に陥った。

そこで高木らは再び次のような募金声明を出した。「人に幸不幸あり、愚不遇あり、これまた天のしからしむるところ、貧にして病み、病んで療するあたわざる者を救うは、健康裕福の人、社会に尽くすの一義務たる信ずるなり」これが反響を呼び、皇室からのご下賜金六千円もあってかなりの拠金が集まった。渋沢の名もその中にあった。こうして五年間は約一万六千円で運営された。だが病院を恒久的に維持する費用を、今後いかに捻出するかは、大きな問題であった。このため鹿鳴館を舞台にして活躍していた華族夫人らに働きかけ、「婦人慈善会」が明治17年に結成され、皇族を総裁にして、年二回慈善バザーを開き、売上金一万五千円が寄付された。皇后陛下の行啓とご下賜金もあって病院の平均年収は明治20年から九年間で二万六千円になった。会員には渋沢の夫人、長女、次女、嫁、孫まで加わったが、全体的にみると会員数も拠金も、年とともに減少傾向にあった。そこで字形医院幹事長の有栖川宮慰子殿下は、実業家の渋沢に援助を求めた。

渋沢は直ぐに了承し、何人かの主だった実業家の協力を求め、自らは「東京慈恵医院の相談役兼団体募金委員長」の役に就任した。渋沢の計画は、なるべく早い時期にできるだけ多くの資金を集め、それを配当率の良い株券か、利率の良い銀行預金にして、そこから配当ないし利子によって病院経費を賄うということにあった。

有力な実業家と家族の翼賛により経済的にも潤沢となり、1907(明治40)年、社団法人・東京慈恵会が発足した。会長は徳川家達(慶喜の後任)とし、渋沢が副会長、病院長に高木が就任した。渋沢の活動により多くの拠金が集まり、初年度のみで申し込み金額は三十三万円に達した。これは現在の価格でいえば。三十三億円に相当する。こうした拠金、配当金、利子(公債、株券、預金)などにより、資産は急激に蓄積され、施設の拡充が図られ、大正十年には東京慈恵会医科大学が創設された。

渋沢の親族はこぞって毎月の寄付を行い、その数は二十名にも及んだ。これは渋沢の母親の影響もあったと思われる。彼女は慈悲深い女性で、気の毒な人がいると黙っていられず、いろいろと世話をした。あるとき、共同浴場にハンセン病患者が入ってきた。入浴者は気味悪がってみんな逃げ出したが、気の毒に思った渋沢の母親はその患者と一緒に入浴し、背中まで流してやったという。

  • 養育院の創設と発展

養育院は、1872(明治5)年に設立された救貧施設である。東京都立老人医療センターの前身が養育院付属病院で、現在では地方独立行政法人「東京都健康長寿医療センター」と名称が変わり、都立から離れたが、2000(平成12)年までは、東京都の中に養育院という部局があった。

ここの広い構内には隅々に渋沢栄一の銅像が置かれている。栄一は初代養育院長となり没するまで58年間もの長きにわたってその発展に尽力した。

養育院の発端は、明治五年大久保一翁東京府知事の提言によるものである。渋沢栄一の銅像の傍に「養育院を語り継ぐ会」で建てた記念碑があり、その碑文が養育院史を要約してある。その全文は次のようなものである。

「養育院は、明治5(1872)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩(元東京大学)の空長屋であった。その後、本院は上野、神田、本所など、東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在の板橋に移転した。養育院施設運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信により創設された七分積金が明治政府に引き継がれたもの)である。

養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7(1874)年から、会議所及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12(1879)年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に尽力した。養育院は鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次大戦後は、児童の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など、時代の要請に応じて様々な事業を展開した。

平成11(1999)年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史に幕を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている」

現在の健康長寿医療センターの二階には、稲松孝思医師らにより「養育院・渋沢記念コーナー」が設けられた。それは養育院の歴史展示と利用者向けの読書コーナー、癒しの休憩スペースとなっている。

養育院は渋沢の社会福祉・医療の象徴的存在であった、渋沢は歿する際まで、うわごとで「養育院をよろしく頼む」と田中太郎養育院幹事(渋沢没後の院長)に訴えたといわれる。(前編)

小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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