先人たちの「健康長寿法」とは?(八人目)後編

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●尼子富士郎 (1893-1970)78歳 我が国老年医学のパイオニア

1.略歴(前編にて)

4.医学中央雑誌の編集・刊行

尼子の生涯にわたる業績は、老年医学以外に『医学中央雑誌』の編集・刊行がある。これは1903年、尼子富士郎の父、四郎によって始められた、医学文献の情報誌である。尼子はこれを継承し、発展させた。

創刊号では64誌から1886件の文献を収載していた。その後1980年には、収録文献数15万件に達した。そこには外部からの支援を受けずに、献身的に国内最高の医学情報誌を発展させた尼子の大きな努力がある。この功績で、尼子は紫綬褒章と日本医師会最高優功章を授与されている。

尼子は海外でも老年医学で名を知られていたが、自身は一度も外国に出たことはなかった。それは『医学中央雑誌』の仕事が、片時も自身の手を離せなかったからである。筆者らは、常に尼子からさまざまな医学文献を渡され、所定の用紙に要約を書いて出すように依頼された。それは原著論文の要約のまた要約である。

どのようにすれば、論文の重要な点を見抜いて所定の原稿範囲内に書けるかが、常に問われていた。尼子はこうした原稿のすべてに目を通した。抄録は簡潔で要点をおさえたものでなければならない。短い中に、目的、方法、結果があり、適切な用語や字句を用い、句読点の使い方まで教えられた。

『医学中央雑誌』の事務所は、尼子の住所に接していた。尼子は朝早くから、夜遅くまで、到着した医学雑誌のすべてに目を通して取捨選択され、職員の書いた原稿のすべてにわたって誤字、脱字その他を訂正された。月に六回の刊行は、常に締め切りが迫られているようなものであった。だがそれは、老年医学と並ぶ尼子のライフワークであった。

5.業績と人物

二つのライフワーク:

尼子の二大ライフワークといえば、老年医学と『医学中央雑誌』である。この両者は尼子にとって、車の両輪であった。いずれも我が国医学の発展に大きな貢献を果たした。結果から言えることであったが、尼子には高齢社会の到来と情報医学の重要性を予測する先見の明があった。だがそのいずれもが、多大な努力を必要とした。

尼子は、早朝から浴風園に出勤するまでと、帰宅後就寝するまでの間を『医学中央雑誌』の仕事に当て、浴風園では老年医学の発展のために尽力した。医学中央雑誌社の当直職員は、尼子の書斎の灯りが消えているのを見たことがないと語っている。

尼子は、自身の仕事をよりよいものにするために、多くの語学の習得を図った。英独仏は無論のこと、スペイン語やイタリヤ語まで、専門家について個人的に勉強した。また、数学の個人教授も受けられた。講師となったのは、高校の数学教師を退職され、医学中央雑誌の職員となった大山文雄である。

週一回で九年半、回数にして400回、微積分、行列式、確率、統計から微分方程式まで、教科書にある数百題のすべての問題を解かれて、大山を驚かせた。ある人からなぜそのように数学を勉強されるのかと聞かれて、先ず面白いから、第二に脳の老化防止になること、第三に外国の文献などで死亡率などに微分方程式などが出てくるので、少しでも理解を深めたいからと言われた。

浴風会の医局では、新着の主だった外国医学雑誌が常に展示されていて、誰でも手に取って読むことができた。その目次を見ると@の印がついた論文がいくつか必ずあった。それは尼子が読み、興味を持たれた文献である。分からないところがあると、どんな若い者にも説明を求められた。専門分野にわたる医学の単行本でも、尼子に依頼すると入手できた。

尼子は第二回老年学会会長(1961)のとき、「人は健康な身体と安定した経済事情の下にあって、さらに人として最も大切な知性をも、いつまでも高く保つにはどうしたらよいかということを研究するのが、老年学の一つの大目的である」と述べ、そのためには「精神の活動を常に活発にし、その力を持ち続けるようにする」ことが大事であると、平素から言われていた。

誰もが尊敬する人物像:

尼子の温容には誰でも親しみを覚える。論語に「老人には安心され、友人には信ぜられ、若者には慕われたい」という言葉があるが、尼子はまさしくそのような人物であった。どんな人でも対等に付き合い、学究的でありながら心が温かく、思いやりがあった。地位、名誉、利殖、勲章とは、生涯無縁であり、忌避された。浴風園における医局員の研究にも、自身の名前を入れさせなかった。筆者はあるとき、第三内科からのお歳暮を届けたことがあったが、すぐ呼ばれて「君、つまらんことをするな」と叱られた。

往診は一応断られたが、職員の家族などには承諾された。だが地位の高い者、裕福な者には絶対に往診をしなかった。どんな場合にも往診料や謝礼は取らなかった。戦時中は、戦地に赴いた医局員に、『文芸春秋』をひそかに送られていた。留学中の者にも、尼子直筆の入った医局員の寄せ書きを送った。一方、マスメディアなどの面接は拒否した。時間が惜しいのと、世間的に目立つことが嫌いなためであった。

浴風園では昼食時に、奥様手製のサンドイッチを食べながら若い医局員と雑談するのを好まれた。また午後三時にはおやつがあり、茶菓が振る舞われて、そこでも談笑があった。誰もがゆっくりと、自由に会話を楽しむひとときであった。

CPCや学会予行のあとには、必ずビールと寿司が出たし、研究のために浴風園に来た者には交通費があとで支給された。学会後は、その慰労として関係者全員を銀座のレストランに招待された。忘年会などはなかったが、その代わりに年二回、医局員はじめ医局のお手伝いさん、検査技師、X線技師、病理解剖関係者などすべてを歌舞伎座の一等席に招待された。幕間の食事はおいしかった。こういう経費はすべて尼子の私財であるが、そのようなことはおくびにも出されなかった。

多趣味:

尼子くらい趣味の多い医師は少ない。まずスポーツは、稲田内科時代、野球の投手となって、医局対抗で優勝し、教授を喜ばせた。ゴルフは毎日、午後浴風園の庭でクラブを振り、時々若い者に指導されていた。都内の有名カントリークラブの会員であったが、コンペに出られることはなかった。囲碁と麻雀を好まれた。囲碁は中岡二郎七段について習得され、五段くらいの腕前であった。麻雀は古典的な形式のもので、奥様を仲間にして、医局員二名を自宅に呼んで打たれた。ゲームそのものを楽しむという感じであった。

愛妻家であり、映画、演劇、音楽界などには必ず奥様を同行された。愛する一人っ子の子息が一高在学中に急死されたことがあった。ご夫妻の胸中の悲嘆は察するに余りあるが、無宗教で通夜、葬儀を献花のみで済まされた。

6.終焉

尼子は既往症として45歳頃、胆嚢炎の手術を受けられた。以後ときどき再発があったが、生来は健康であった。

1961(昭和46)年、右腰部に疼痛があり、血沈の著し亢進があった。胸水があり、結核として治療し、小康を得た。

七月になって右臀部に激痛が見られ、以後寝たきりとなった。精査の結果、多発性骨髄腫と診断された。翌1962(昭和47)年3月17日未明、死去された。享年78であった。

遺体は大津正一によって詳しく解剖された。死因の第一は多発性骨髄腫である。それは柔らかな腫瘍として脊髄骨、胸骨、肋骨などに広く見られた。腎では遠位尿細管から集合管にかけての拡張性変化と顆粒が高度に見られた。

解剖して初めて分かったことは、顆粒結核であった。それは両肺の全域にわたって灰白色の結核結節として散在していた。比較的新しいものであり。末期の症状に関するものと思われた。さらに前立腺がんが認められたが、比較的分化のよいものであった。

倍検に携わりながら、大津の脳裏には浴風園で長い間、教えを受けた尼子の言葉が去来したという。

尼子は亡くなる直前まで仕事を続けた。『医学中央雑誌』の佐藤輝義は、亡くなる前の尼子について次のように書いている。

「先生の病篤く、お亡くなりになる数日前まで、『医学中央雑誌』のゲラ刷りに目を通される日課を中止されることはなかった。ベット上の書見台のゲラ刷りを一頁読み終わるごとに、ハラリとベットの傍に落とされた。頁を繰るお力も、赤鉛筆を握るお力をなくしても、なおかつ努力されている先生のお姿に胸が一杯で、声も出なかった。お亡くなりになる最期の朝まで『今日、校正は?』と看護に手を尽くされる奥様にお訊ねになった旨をうかがい、涙を止める術を知らなかった」

老化に関する著作も、退職後、遍く文献を集め、「植物の老化」「動物の老化」と書き進め、「人間の老化」についても準備していた。だがそれが果たされることは、なかった。

尼子の葬儀は、浴風園の礼拝堂において無宗教で行われた。ベートーベンの田園交響楽が静かに流れる会場で、世界諸国の老年医学雑誌に囲まれた中心に遺影が置かれた。弔辞を読んだ高弟の村上元孝の声は、ときどき涙で途切れた。

日本老年医学会では、平成28年から、尼子先生の学会に対する功績を記念し、尼子賞という表彰状を授与されることになった。

あとがき

これまでに挙げた8名は、いずれも充実した健康長寿を全うした人たちである。彼らの生きた時代は、戦争があり、飢餓があり、痘瘡、結核、コレラなどの疫病が蔓延していた。その環境は、今では考えられないほど、劣悪な状態であった。

にもかかわらず、彼らは自分の人生観を堅持し、生涯にわたって変わることなく、社会に貢献した。彼らに共通する特徴は、常に前向きな姿勢で一生を貫かれたことにある。

健康長寿では、単に長生きしたのみでなく、どのように生きたかが問われる。

エピクロスは「知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである」と述べている。彼もおそらく人生を楽しんだのでしょう。 小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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