先人たちの「健康長寿法」とは?(一人目)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●貝原益軒 (1630-1914) 84歳 養生訓 江戸時代の予防衛生学

江戸時代では高齢者はほとんどいなく、寿命ということにあまり関心が払われなかった。こうした時代に、初めて寿命ということの意義の重さを語った。養生訓には、次のように記されている。

人の寿命は100歳であり、上壽は100歳、中壽は80歳、下壽は60歳となる。世間では下壽を保つ人が少なく50歳以下の短命が多い。短命になるのは、生まれつきではなく、10人中9人は自分自身で寿命を衰えさせている。ようは、自分自身が養生をしないからだ、という。

江戸時代、徳川藩主は家康と慶喜を除いて70歳に達したものはなく、平均は51歳といわれる。これが庶民であれば30歳~40歳というところであろう。長生きという思想は戦国時代や江戸時代初期にはなかった。

「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」や「武士は身を鴻毛の軽きに比し、死を見ること帰するがごとく(自分の家に帰る)」など死を美化した。こういう時代にあって「人の命は天地の恵みであり、父母の残した尊い体であるから、大事にして長生きするべきである」というのである。貝原益軒は83歳で養生訓を執筆し、84歳で出版し、85歳で没した。83歳の健康状態は「夜、細字を書き読み、牙歯固くして一も落ちず」(抜歯が一本もなく良好な視力を有していた)まさに徳川時代の健康長寿のお手本であった。しかも、幼時より多病と称していた。これゆえに「養生訓」は、自分の経験をもとにした実践の書であり、合理的、具体的でかつ実証性を示している。だが、この時代にそんなに長生きをしてどんな得があるのか。益軒は言う。

およそ人の楽しみは3つある。 「健康を楽しみ」 「毎日の善行と仁の実践を楽しみ」 「長生き自体を長期の自由が得られると楽しむ」 この3つの楽しみがなければ、どんなに富貴を極めても、無益である!

益軒は天地の年数を中国の説から12万9千6百年として、自分はその真ん中にあり、過去に6万年、未来に6万年ある。この長さを思うと、百年の命は千分の一にもならず、これを思うと悲しくて涙がこぼれる。という多感な人であった。現在では、現代人すなわちホモ・サピエンスが東アフリカから発症したのが、二十五万年前といわれている。さらに宇宙物理学では、太陽や地球の命は50億年さきであると推定し、百年などは一瞬に過ぎない。だがその一瞬に、固有の命の尊さがある。

●貝原益軒の略歴

1630年(寛永7年)12月、筑前国(現在の福岡県)に生まれる。18歳で福岡藩に仕えるが、二代目藩主の怒りに触れ、七年間の浪人生活を送った。二十七歳のとき、三代藩主に許され、藩医となったが、翌年、藩費により京都に留学した。そこで本草学、朱子学などを学び、多くの学者と交わった。七年間の留学の後、帰藩して百五十石の知行を得、藩内で朱子学を教えた。また、朝鮮通信使への対応、藩命による「黒田家譜」の編纂を行い、さらに藩内を隅なく回って「筑前国続風土記」を編纂した。

隈なく回って「筑前国続風土記 』を編纂した。七十歳で職を退き、以後著述業に没頭した。著書は六十巻二百七十余冊に及んだ。その領域は儒学、本草学、地理学、教育学、紀行文と広範であり、文体は平易で庶民に分かるように和文で書いた。『養生訓 』がよく読まれるのには、文章が分かりやすい点も関係している。シーボルトは、貝原益軒を「東洋のアリストテレス」と呼んだそうである。それだけ学識が豊かであった。千種を超える植物を栽培し、自ら観察して『大和本草 』十六巻を著わした。常に前向きであり、かつ人生を楽しんだ。貝原益軒は三十九歳のとき、十六歳の女性と結婚した。その妻は貝原東軒と称し、たぐいまれな才女であった。和歌を詠み、達筆であり、よく益軒を支えた。共に各地を回って見聞を広めた。年齢は二十歳以上も離れていたが、六十四歳で亡くなった。愛妻を失って益軒は呆然となり、家に閉じ込もって人との面会を避け、八カ月後にそのあとを追うようにして亡くなった。享年八十五である。(健康長寿を先人に学ぶ 小澤利男)

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です