先人たちの「健康長寿法」とは?(二人目)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●杉田玄白(1733-1817) 蘭方医学の基礎を築き発展させた開業医

1773年(享保18)江戸牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれる。家系は代々の医家で玄白は3代目。24歳の時に日本橋で開業医となり、32歳で藩の奥医師となる。

漢方医学で五臓六腑を信じて診療を行っていた時代に蘭方医学書を初めて翻訳し刊行した。玄白らの業績は、わが国医療の発展に貢献し、その功績は極めて大きい。

1771年、小塚原刑場で腑分け(死刑囚の解剖)があり、立ち会った「杉田玄白」と「前野良沢」が同じオランダ語の解剖書(「ターヘル・アナトミア」)を持参し、その図譜と実際の解剖所見とがよく一致するのに驚き、漢方医の五臓六腑には多くの誤りがあって役に立たないことを痛感した。腑分けの帰途、玄白がその本の翻訳を提案し、良沢は直ちにこれに賛同し、善は急げと翌日から良沢の家に集まってとりかかった。こうして苦心の末、1774年に『解体新書』が発刊された。

●解体新書の刊行

オランダ語で書いてあった「ターヘル・アナトミア」の翻訳は通詞の力を借りずに、オランダ語に多少通じているのは良沢のみとういう心細さでおこなわれた。この間の事情について「蘭学事始」につぎのように記されている。

「それはまるで『オール』も『かじ』もない船で大海に乗り出したように、ぼうっとして寄りつくところもなく、ただあきれにあきれているばかりであった。毎日、日がくれるまで考えつめ、たがいににらみあって、わずか一行の文章が、それもわかるとはきまらなかった。

だがわからないとこもそのうち、わかるときもあろうというので、丸の中に十文字を書いて、知らぬことを「くつわ十文字」と呼んでおいた。こうして、きめた日には “なまけず” 必ずみんな集まって、相談をして読みあっていったところ、まことに 「くらくないものは心」 とやらいうとおりで、およそ一年余り過ぎると、訳語の数も増え、読むにつれて、オランダの国の事情も分かるようになり、あとになると、文章、分句のまばらなところは、一日に十行も、それ以上も、たいして苦心をしないでもわかるようになった。

一日の会合で分かったところは、その夜訳して原稿をつくっていった。このようにはげんで、2~3年もたち、ようやく訳が分かるようになるにつれて、しだいにサトウキビをかみしめるように、そのあまみが出てきて、これで、長い間の誤りもわかり、そのすじみちがたしかに通るようになることが楽しくて、会合の前の日から夜の明けるのを待ちかねて、まるで女や子供が祭りを見に行くような心地がしたものである」と。こうして四年間の間に十一回まで書き直したうえで、版下にわたすまでにとなり、ついに『解体新書』の翻訳ができあがった。

だがこうした洋書を翻訳して刊行するというのは、前例のないことであった。そこで玄白らは慎重にことを進め、幕府のお咎めにならないように老中などに手をまわして『解体新書』を献上し、京都の主だった公家にも送って謝礼の言葉をいただいている。

「ターヘル・アナトミア」とは、本の正式名称ではなく、俗称で解剖学図譜というような意味である。

医師になろうとするものが、まず、第一に学ばなければならない大きな学問が、人体解剖学である。それは古今東西を通じて現代まで変わりはない。

人体は、神経系、感覚器系、循環器系、運動器系、呼吸器系、内分泌代謝系、腎泌尿器系、血液免疫系、生殖器系などから成る複雑な形態を構成している。それは五臓六腑や経絡などでは、とても対応し得ないものがあった。しかも横で書かれていたものを縦にするというのは、かつてない大事業である。西欧に在ってわが国にない用語も少なくなかった。「神経」、「動脈」、「軟骨」、などという我々が日常使用している言葉は、このときに創出されたのである。それは単なる翻訳ではなく、新しいものの始まりであった。

『解体新書』の著者は、杉田玄白、中川淳安、石川玄常、桂川甫周で、最大の功績のあった前野良沢の名前はみられない。ただし序文を書いたオランダ通詞中最高位の吉雄耕牛は、これを前野良沢・杉田玄白の二人の天下後世の徳となる仕事として激賞している。

良沢は完璧主義者であり、オランダ語に精通することを自分の使命とし、生涯人を避けて蘭学の習得に没頭した。誤りの多い不完全な訳本を刊行することをよしとしなかったのである。一方、玄白は訳本を一刻も早く出版して、世の中に役立てたいと急き立てた。自分は体が弱いからいつ亡くなって草葉の陰になるかもしれない、と日ごろからいうので、「草葉の陰」というあだ名がつけられた。

実際、『解体新書』の刊行は、大きな反響を呼んだ。「巧遅は拙速に如かず」という言葉のとおりであった。誤りが多くあっても、当時の日本にあってはこの本は二冊しかないから、どこが誤りか分からない。のみならず、当時の多くの医師は、五臓六腑の人体に疑問を抱いていたのである。山脇東洋は腑分けを見、みずからカワウソを解剖して「臓志」という書物をすでに著していた。『解体新書』はまさしく心ある医師の渇望の書であった、漢文で書かれてあっても、人体の精細な図譜が付いているから、それを見るだけでも理解ができる。その影響は玄白の思いを遥かに超えており、漢学に対して蘭学という言葉が自然に出てきた。

奥州一ノ関に建部清庵という医官がいた。玄白のこと聞き、『解体新書』が出版される前から、自分が日常疑問に思うことを書いてよこした。書かれてあることは、医業に関して玄白と思うことが一致し、感服することが多かった。互いに知らぬ仲であったが、こうした高い見識のある人に会ったことを喜び、絶えざる手紙の往復があった。この手紙を門人が集めて『蘭学問答』という名をつけて保存した。建部は玄白よりも二十歳も年上の老人であったが、自分の門人の大槻玄沢という男を江戸へ出して玄白の門下生とした。

大槻玄沢は性格がよく、オランダの科学の勉強には生まれつきの才能があった。玄白はその人物と才能を愛して指導に励み、のちには良沢に依頼して蘭学を学ばせた。また長崎にも留学させた。玄沢とは二人の師、玄白と良沢からとった名前である。彼は1826年(文政9)、『重訂解体新書』を著わし、『解体新書』をほぼ完全なものとして刊行した。玄白には蘭学を学ぶ意志はそれ以後なかったが、すぐれた多数の医師が玄白を慕って集まり、内科、外科の翻訳書も出版され、さらにオランダ語の辞書「ハルマ」が刊行された。

●杉田玄白の養生法と人生観

病弱と自称していたが、84歳という高齢で没した。晩年には“九幸”という号を常用していた。九つの幸とは

  1. 平和な世に生まれたこと
  2. 都で育ったこと
  3. 上下に交わったこと
  4. 長寿の恵まれたこと
  5. 俸禄を得ていたこと
  6. 貧乏をしなかったこと
  7. 名声を得たこと
  8. 子供の多いこと
  9. 老いてなお壮健なこと

これは極めて世俗的な幸福感で、現実的で、現代日本人の誰しもが望むところであろう。門下生も多く、面倒見がよく、弟子の才能をよく伸ばした。このような恵まれた境遇に達したのは、玄白なりの養生法によるものであった。

古希の祝いに、玄白が子孫のために残した「養生七不可」

  1. 昨日の非は恨侮すべからず(後悔をしない)
  2. 明日の是は念慮すべからず(未来に期待しない)
  3. 飲と食は度を過ごすべからず(暴飲暴食を戒める)
  4. 正物に非されば苟も食すべからず(出所の分からないものは食べない)
  5. 事なき時は薬を服すべからず(薬をみだりに服用しない)
  6. 壮実を頼んで房を過ごすべからず(過度の性行為を慎む)
  7. 動作を務めても安しを好むべからず(運動習慣の勧め)

前回説明した、貝原益軒の『養生訓』はすでに玄白の約100年前に刊行されていたが、玄白の「養生七不可」益軒のような儒教の感じがなく、常識的で簡潔であり、現在に十分通用する。過去のことをクヨクヨせず、未来にも期待せず、現在只今の仕事に集中せよというメンタルヘルスに重点を置いた考えは、現在のコロナ禍を生き抜く知恵ではないだろうか。

玄白は、83歳のときに、50年前のことを回想して『蘭学事始』という後世に残る不朽の名著を書いた。それは蘭学に関する自分史であるが、その蘭学発展に対する影響ははかり知れないものがある。

幕末の大阪に緒方洪庵という蘭学者がいて、適塾という蘭学、蘭方医養成の塾を開いた。緒方洪庵は、一時、杉田玄白の弟子の歌川玄真に蘭学を学んでいる。人柄が温厚で語学力は抜群であり、教育法に優れていたので、門下生三千人を数え、優秀な人材が多く育った。中でも大村益次郎と福沢諭吉は、医師ではないが、幕末の文明開化に大きく貢献した。大村は戊辰戦争の指揮をとってわが国の陸軍の基礎を築いた。福沢は漢学を敵とし、独立自尊で実学の重要性を説き、慶應義塾大学を開設した。

玄白が83歳の時に著した『蘭学事始』は、単なる回顧録ではなく、さまざまな資料を掲載してあり、歴史的にも価値の高いものである。玄白が書き、大槻玄沢がこれを改定して1817年に『蘭学新書』として原本と写本二冊を出したが刊行しなかった。それを福沢諭吉の友人が露店で見つけて福沢に知らせた。福沢は親友の箕作秋坪とともに写本を繰り返し読み、「ターヘル・アナトミア」翻訳の苦心の一段に至ると、共に無言となり、感涙にむせんだという。

『蘭学事始』という言葉は福沢によるもので、明治二年に刊行された。福沢諭吉というわが国の文明開化を啓蒙した先覚者が、こうして玄白につながるのである。

玄白がこの世を去る直前に書いたのが「医事は自然に如かず」この言葉は、大変有名な言葉で、

病気の治療は自然に従った治療あるいは療養の仕方以上のものはないという意味であり、自然界の大きな流れの中で生かされている我々は、自然に生きることこそが最も重要だと言われた。

(健康長寿を先人に学ぶ 小澤利男 幻冬舎メディア2019)

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