先人たちの「健康長寿法」とは?(四人目)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●佐藤一斎(1772-1854)幕末に88歳まで長生きをした大儒学者

1772年(安保元年)美濃岩村藩の家老、佐藤信由の次男として江戸藩邸で生まれた。文武に抜きん出ていた。門弟は三千人といわれ、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、安積艮斎など多くの英才を育て、幕末の思想に大きな影響を与えた。名著「言志四録」は現在まで読み継がれている。

「言志四録」の四録とは『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録(てつろく)』をいう。

「言志四録」とは志をたてることにあり、倫理道徳、学問修養、処世訓など、折に触れて書かれた短文の箴言集である。

一斎は42歳で稿を起こし、82歳まで記し、88歳で歿するまで官職を離れなかった。

四録とその著作年齢は、

『言志録』(246条)・・・・・・・・・42歳~53歳

『言志後録』(255条)・・・・・・・・57歳~67歳

『言志晩録』(292条)・・・・・・・・67歳~78歳

『言志耋録(てつろく)』(340条)・・・80歳~82歳

『言志四録』は、教育・修養・克己など、倫理の面で今でも活用されている。たとえば小泉純一郎元総理は、教育関連法の審議に際して、「少にして学べば、即ち壮にして為すことあり、壮にして学べば、即ち老いて衰えず、老いて学べば、即ち死して朽ちず」(『言志晩録60条』)という言葉を引用して注目を集めた。終生にわたって学ぶことの重要性を説くのに、適切な箴言といえよう。

『言志四録』は、このような学問、教育関連において、簡にして要を得た名文が多いから、その解説書も多く出されている。

だがここで、『言志四録』を考察するのは、修養書としてではなく、42歳から82歳までの著述において、どんな変化があったかをみることにある。

書き始めは、『言志四録』という名称であった。だが60歳近くまで生きたので、『言志後録』とした。前編と後編の意と思われる。さらに古希まで生きたので、『言志晩録』とした。そして図らずも80歳まで生きるに至ったので、耋録(てつろく)という難しい用語を使った。これで終わりだという意味であろう。

指摘しておきたいのは、初めからの『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』は、それぞれ10年を要し、条文も大体同じであるのに対し、『言志耋録(テツロク)』のみはわずか2年で終え、条文はそれまでの3巻よりも多い。80歳になって先が短いと思ったためであろうか。この一点は一斎も自覚していたようで、刊行にあまり乗り気でなかったようだ。だが他から勧められて公にした。健康長寿を考察するには、この最終の『言志耋録(テツロク)』に関心をもつ。

「言志四録」は、40年にわたる佐藤一斎自身の加齢変化の記録ともいえる。そこには、自然観、人生観、老人観、死生観が出ている。それは現代に生きる高齢者にどんな示唆をあたえるのであろう。考察してみたい。

  • 自然観

『言志録』の冒頭に次のように書かれている。

「凡そ天地の事は、古往今来、陰陽昼夜、日月代わるがわる明らかに、四時互いにめぐり、その数皆な前に定まれり。人の富貴貴賤、死生壽夭、利害栄辱、聚散離合に至るまで一定の数に非ざるはなし。殊に未だ之を前知せざるのみ(言1条)」

これは、日月、春夏秋冬、昼夜などの規則正しい自然の運行になぞらえて、人生も同様、その命は一定の数として、あらかじめ決まっている。我々はただそれを知らないだけである、というのだ。

論語にある「死生命あり 富貴天にあり」ということばを想起させられる。ちょっと考えると運命論のような感じを受ける。人為は天によるあやつり人形のようなものであり、人の寿命は天により定まっている、というのである。

一斎の教えの基準は、天にあった。天意を知り、それに悖ることなく、常につとめてやまないのが、学問であり、修養である。

だが、天とは何か。それは我が身をこの世に生み出し、あらしめたものである。自分は天によって生かされ、天の働きによってここに存在する。したがって天命を知るということが重要となる。

「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とする(言2条)」

「凡そ事を作すには、須らく天に事うるの心あるを要すべし(言3条)」

天の意図にしたがって生きることの重要性がここにある。ただ天は己に対するものではない。己の心それ自体が天である。

心は軀殻(クカク)と対比される。軀殻とは身体である。父母によって与えられた軀殻(クカク:身体)に天そのものが心として宿った存在が人である。

「軀殻は是れ地気の精英にして、父母に由って之を聚む。心は天なり。軀殻成りて天ここに寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚滅ぶ。心の来処はすなわち太虚これのみ(言97条)」

人という存在を心と身体に分け、心は天に由来し、身体は地に由来する。この対応関係が一斎の思想の核心にある。儒学と易学とを学ぶとこういう自然観となるように思われる。天という言葉は、神でも仏でもない。だが江戸時代では、こうした思想が重きをなしていた。福沢諭吉の「学問のすすめ」の冒頭にも「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」という有名な言葉があるが、当時の人たちはこれで天を理解していたのである。

  • 死生観

江戸時代は若くして死ぬ人が多く、医療も無きに等しかった。したがって、死は身近な問題であった。生きたいという欲望に対して、死は突如として到来する。すべての人間は死を免れることはできない。死ほど畏るべきものはない。これに対して一斎は、死は畏るべきものではないと説く。

「生物は皆死を畏る。人は其の霊なり。まさに死を畏るるの中より、死を畏れざるの理を撰み出すべし。我思う。我が身は天物なり。死生の権は天にあり。まさに順ひて之を受くべし。我の生まるるや、自然にして生まる。生まるる時、未だ嘗て喜ぶを知らざるなり。則ち我の死するや、まさに自然にして死し、死する時、未だ悲しみを知らざるなり。天之を生じて天之を死せしむ。一に天にまかすのみ。吾何ぞ畏れむ。吾が性は即ち天なり。軀殻は即ち天を蔵するの室なり。精気の物とするや、天此の室に寓せしめ、遊魂の変をなすや、天此の室を離れしむ。死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而うして吾が性の性たる所以の者は、恒に死生の外に在り(言137条)」

要するに人の死生はすべて天の然らしめるところである。生まれたときに喜びがなく、死ぬときにも悲しみを知らない。死生は天にまかせるべきで、何ら畏れることはない。身体という軀殻は、天の室である。精気がこれに入るのが生、出るのが死である。自分はこの生死を超越したところにある。というのである。

一斎は死生を超越することを説いた。その基本にあるのが天である。長寿も短命も天の然らしめるところである。いたずらなる延命は天に背くものとした。生まれる前と死んだ後は、同じである。生死は分かちがたい。

戦争中、よく「悠久の大義」ということが言われたが、それに似ていないこともない。だが天とはそうしたものではない。深遠な哲理を有しているのである。

  • 老人観

一斎も人間である以上、次第に年をとっていく。それは潮の満ち引きのように寄せては返し、いつとはなく次第に退いて、やがて老いを自覚するようになる。

「天道・人事は、皆漸を以て至る(耋録285条)」

「人の齢は、40を超えてもって7-80に至り、漸く老いに極まり、海潮の如く然り。退潮は直退せず、必ず一前一卻(キャク)して而して漸退す。即ち回旋して移るなり(晩282条)」

80歳といえば、当時は100歳にも匹敵する長命で、容易には達しがたい年齢であった。だが一斎は88歳で歿するまで、幕府の儒官という勤めを果たした。生涯現役の手本というべきであろう。しかし、一斎といえども老いには克てない。そこで老いとは何か、老人とは何かを自問する。80歳から書かれた『言志耋録』の後半には、この課題に論議が集中している。それが自戒となり、老いを養う道となるのである。

まず老人はせっかちで、一時しのぎの便利なことを好み、人を憐れみすぎる。またしつこい、一事にこだわる、ものに恐れ縮む、心配し過ぎる。これらは衰えた心の状態を示すのだから、戒むべきだという。

「老人は速成を好む。苟便(コウベン)を好む。憫恤(ビンジュツ)に過ぐ。戒むべし。この外執拗、拘泥萎縮、過慮の数件有り。すべて是れ衰頽の念頭なり(耋録307条)」

老人は数年前のことを、時々思い違いをしていることがある。それをみだりに人に話すと、間違いや差しさわりを来すことがある。

「老人は数年前の事に於いて、往々錯記誤認あり。今みだりに人に語らば小差を免れず。或は障害をなさむ(耋録299条)」

超高齢者になると、考えがぼんやりしてとりとめがなくなる。たとえば、水に映った影を本物と思い、舟に乗っているときも岸が動くように見え、どれが本物か分からなくなる。

「極老の人は思慮昏聵(コンカイ)す。たとえばなお水影物倒となり、舟行、岸動くが如し。彼此を弁せず(耋録297条)」

天寿を全うするのは、次第に移っていくのである。年を取ると物忘れをする。それがひどくなると耄碌し、しまいに死亡する。死ねば形を失い、運命の原点に戻る。物忘れは認知症につながり、死に至る。

「老人の天数を終ふる者は、漸を以て移る。老いて漸くよく忘る。忘ること甚だしければすなわち耄す。耄の極みは乃ち亡す。亡すれば乃ち漸して原数に帰す(耋録331条)」

精神的身体的に機能が低下した高齢者の様子は、昔も今も変わらない。80歳に達した一斎もこうした老化現象に悩んだのであろう。これらにいかに対処すべきか。

  • 老人の養生

体には老化があっても、心には老化はない。物の道理は、老人でも変わることはないのである。したがって老人は、老少のない道理を体得することが必要である。

「身には老少有れども、而も心には老少無し。気には老少有れども、而も理には老少無し。須らく能も老少無きの心をとりて、以て老少無きの理を体すべし(耋録283条)」

人の寿命というものは、天が定めるものであって、いかんともしがたいが、養生に努めることは天に従う道である。養生の意義がここにある。

「人命は数有り。これを短長する能わず。然れども、吾が意、養生を欲する者は、乃ち天之を誘ふなり。必ず修齢(長命)を得る者も、亦天之を賜うなり。之を究するに殀壽(ヨウジュ)の数は人のあづるところに非ず(耋録288条)」

高齢者の養生についても、一斎は多くの条文を割いている。それは、老いに至った自身に対する戒めの言葉とも受け取れる。養生にあたっては、病気を未然に予防することが大事である、と説く。

「病を病無き時に慎めば、則ち病無し。患を患無き日に慮れば則ち患無し。是を豫と謂ふ。事に先立つの豫は、則ち豫楽の豫にて一なり(耋録148条)」

豫楽とは楽しみということである。病気にならないように常に心掛けるのは、一つの楽しみなのである。長寿を祈らずとも、若死にしなければよいとする。

「必ずしも壽を祈らず、夭せざるを以て壽となす(耋録154条)」

養生に当たって害となるのは何か。挙げられているものは、速成(せっかち)、遠歩(遠くへ行く)、過食、久座(動かない)、思慮を労する(心配事で疲れる)、放恣(勝手気まま)、奢侈、欲張りなどである。すがすがしく感ずる忙しさはよいが、閑がありすぎるのはよくない。

「清忙は養をなす。過閑は養に非ず(耋録322条)」

食物では口が好むものよりは、胃腸にとってよいものを取ること。

「老人の食物におけるは、宜しく視て薬餅と為すべし。分量有り、加減有り、又成熟の度有り(耋録305条)」

老人において重要なのは、安らぎがあることである。

「老人の自ら養うに四件有り。曰く和易、曰く自然、曰く逍遥(ショウヨウ)、曰く流動、是なり(耋録308条)」

気持ちは安らかに、自然にしたがい、ゆったりと散歩し、一つのことに執着しない。自然に親しみ、行雲流水のように常にやすらかであるべきだ。

「老いを養うは、一の安宇を保つを要す。心安く、身安く、事安し。何の養か是に如かん(耋録321条)」

寿命は予め定まったものであるから、不老長寿は問題とはならない。

「死生は固と定数有り、ただ養生して以て享くるところの全うするを、ここに得たりと為す。長生久視はいうに足らざるのみ(耋録335条)」

死生を超越するとは、このことであろう。こういう覚悟が平素からできているのである。ただ生きている者には生気がある。生気がなくなれば、死に至る。

「凡そ生気有る者は、死を畏る。生気全く尽くれば、この念も尽く。故に極老の人は一死眠るが如し。(耋録336条)」

先に死を畏れるないと死生観を述べていながら、死を畏れるというのは、少し矛盾を感じる。生きたいという欲望は、なかなか消えないであろう。しかし、一斎の説く養生法は要点を抑えている。特に心の安らぎを重視しているが、こういう生き方を、現代人は学ぶべきである。

  • 臨死期の対応

いよいよ死がせまったときには、どのように対応すべきか。

「臨没の工夫は、宜しく一年に未生の我をもとむべし。『始を元(タズ)ね終わりに反り、死生の説を知る』とは是なり(耋録338条)」

つまり死に臨んでは、まだ生まれない前の自分を考えてみるべきだということだ。また最期に至るまで、誠意がなければならない。

「誠意は是れ終身の工夫なり。一息尚お存すれば一息の意有り。臨没にはただ澹然として累なきを要す。即ち是れ臨没の誠意なり(耋録339条)」

死に臨んでは、きっぱりと心に何の煩いがないことが大事で、それが誠意である。

また自分の体は、完全な形で父母が生んでくれたものである。したがって、臨終には完全な形で帰すべきである。ただ父母に感謝し、ほかのことを考えてはならない。

「吾が軀は、父母全うして之を生む。当に全うして帰すべし。臨没の時は、他念あることなかれ。唯君父の大恩を謝して瞑せんのみ。是れ之れ終わりを全うすと謂う(耋録340条)」

これが『言志四録』の最後の言葉である。今と違って昔は医療というのもがなきに等しかった。したがって死は、ほとんどが在宅での自然死であった。死が不可避である以上、死に臨んでの覚悟がなければならない。修養を積んだ人の死の在り方を、一斎は説いたのである。延命とか尊厳死、安楽死という概念にとらわれない昔の人の最期を、現代人もみならうべきであろう。

佐藤一斎の門下生ではないが、『言志四録』の影響を最も受けたのが、西郷隆盛である。西郷は『言志四録』からの101条を抜粋し、これを座右の銘とした。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」

という言葉は西郷の「敬天愛人」として広く知られている。西郷南洲遺訓は『言志四録』が骨子となっている。特に注目すべきは次の言葉である。

「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うる勿れ。只だ一燈を頼め(晩13条)」

暗夜とは、先の見えない暗閣の人生行路である。そのとき頼みとなるのは、天を師として鍛えられた自分自身である。一斎も西郷も、それぞれ一燈で終生を貫いたのである。

最期に付言しておきたい。現代の若い人では、天という言葉は死語になっている。それは西欧から導入され、発展した自然科学の影響による。一斎の自分が生まれる前の時間は死んだ後の時間と同じだという哲学は、科学的にみると違った意味がある。

自分の誕生の前には父母、祖父母、曽祖父母と何十代、何百代と連綿とつながる家系があり、さらに類人猿にまでつながっていく。それらは同じ遺伝子による種の系列である。自分の死後も、子々孫々の遺伝子の系列が続く。生体はすべて二重らせんの同一遺伝子でつながるのである。だから生と死は種の保存という重要なつながりを意味する。

人は万物の霊長ではなく、ホモ・サピエンスという種として進化のプロセスにあるということが、最近の科学によって明らかにされている。個体の生命の維持の他に種の保存という重要な役割が、我々には託されているのである。人の寿命は予め定まったものではない。遺伝と環境から予測できるようになっている。

だが、大気と水に保護された地球、太陽からの膨大なエネルギーなど、宇宙はなお神秘と謎に満ちている。『言志四録』の根幹をなす天という概念に、我々は誠意と謙虚の念を抱くべきであろう。

小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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