先人たちの「健康長寿法」とは?(五人目)

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●福沢諭吉(1835-1901)68歳 幕末から明治にかけての最大の啓蒙思想家

福沢諭吉は長生きをしたわけではない、明治34年、脳卒中により68歳で死去した。

年齢的にいえば、当時としては長命の方であろう。だが寿命は長ければよいというものではない。生前にどのような仕事をしたかがむしろ問われるのである。この点からすると、福沢くらい充実した大きな仕事を達成した思想家はいない。

  1. 略歴

福沢諭吉の生涯は、60歳の時に刊行した「福翁自伝」に詳しい。これは口述筆記で、後に福沢が全面改訂して刊行した。

自伝としては実に面白く、自伝文学の白眉といわれる。この自伝で、福沢諭吉という男が、独立自尊、天衣無縫で、日本人には稀な議論好きで進取の気性に富み、酒飲みで過ちもあり、民間に会って社会を批判する啓蒙主義の面目躍如たることを我々は知るのである。

諭吉は、1835年(天保5)年12月、大阪の豊前中津藩奥平屋敷に生まれた。父百助は奥平の下級藩士で大阪に在勤し、会計事務を司っていた。諭吉はその次男で三人の姉と兄がおり、その末っ子であった。だが三歳で父を失い、中津に帰らざるを得なくなった。父の百助は下士だが、学問を好んで人に知られ、兄も才名があり、学者一家であった。母は女ながら福沢の向学心を支援した。だが一方で、誰も相手にしない乞食を自宅に招き入れ、頭の虱を取ってやって、食事を与えるなど情け深い女性でもあった。

郷里に戻った福沢は、中津の封建的制度が嫌でたまらなかったが、十四歳で藩儒白石常人について漢学を学び、忽ち頭角を表した。二十一歳で長崎に遊学して蘭学を学んだ。その後は中津に帰らず、大阪に出て蘭学医の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。

適塾の門下生は三千人といわれ、大村益次郎、長与専歳、橋本左内、高松凌雲などの優れた学者、医師を輩出した。福沢は血を見るのが嫌いだから、医師になる気はなかった。適塾では、単なる蘭方医学のみでなく、広い視野で蘭学を学んだ。門下生は常時80人くらいいたというが、福沢は一年余りで塾長となった。塾風は自由であり、塾生は皆猛烈に勉強した。福沢はここではじめて正式に蘭学を学問として学んだが、興味を持ったのは化学であった。

だが福沢はあるとき、洪庵が借用してきた物理学の本に出合った。借用期限は2日間であったので、塾生を集め、二晩徹夜で筆写した。彼は物理学が物の道理を解明する法則を明らかにした西洋学問の王者であることを知った。それはどこの国でも通用する普遍妥当性がある。後に慶應義塾で教える際にも、文系理系を問わず、すべての塾生に先ず物理学を学ばせた。

1858年(安政5)、25歳のとき、江戸藩邸の召に応じて築地の奥平藩内に塾を開き、蘭学を教えた。その頃、福沢は開港地の横浜見物に出かけ、蘭学が全く通用しないのにショックを受けた。福沢は、世界は英語の時代であることを認識し、独学で必死に英語を学んだ。咸臨丸に乗り込んだのも、英語の習得とその応用を知るのが、大きな目的であった。

慶応4年春、塾舎は芝新銀座に移され、元号によって名称を改めた。明治4年には芝三田に移って、今日の慶応義塾を創設した。

福沢は三度外遊しているが、いずれも明治以前である。最初は幕府の軍艦咸臨丸に、艦長の木村摂津守の従僕として乗りは渡米した。サンフランシスコに上陸したが、見るもの、触れるもの、食べるものなど、すべてが新しく驚きの連続であったという。 帰国後はその語学の腕を買われて、幕府の外国方に雇われて翻訳の仕事を与えられた。

アメリカから帰国後一年で、今度はヨーロッパ諸国への使節団に翻訳方として随行した。このときは、ロンドンからオランダ、プロシア、ロシア、フランス、ポルトガルなどの六か国を歴訪し、陸海軍、政府施設、諸工場、教育制度、病院、社会福祉など隅なく見学して見分を広めた。どこの国でも歓待を受けた。

三回目は再びの渡米で、幕府軍艦受取委員に加わった。だが上司の言うことを聞かず、膨大な原書を買い込んだため、帰国後一時、謹慎処分にされた。

明治になってからは、士籍を脱して平民に戻り、その後一切官とのつながりを断った。このため一時は塾の運営に困窮したが、謹慎中に書いた「西洋旅案内」や「西洋事情」などが、爆発的に売れ、その印税が教育などの資金源となった。

明治15年「時事新報」を創刊。人間の独立自尊と実学の必要性を説き、脱亜論をとなえた。

  • 啓蒙思想家としての福沢の業績

幕末から明治にかけては、維新の時であった。士農工商の身分制度がなくなり、文明開化の時代といわれた。だが、文明開化とは何か。庶民はどのように生きればよいのか。儒学と洋学の差異は何か。思想的には混迷の時代であった。

こうしたときに刊行された福沢の「西洋旅案内」「西洋事情」は飛ぶように売れた。それは乾いた砂が水を吸い込むように読まれ、欧米における社会制度、汽船、車、鉄道、郵便、電信、印刷、病院などの知識の普及に役立った。さらに「学問のすすめ」が刊行され、自由、平等、人権などの西洋思想が説かれた。

これらの発行部数は極めて多く、「西洋事情」が25万部、「学問のすすめ」は22万部であったという。当時の日本の人口は三千五百万人といわれるから、超ベストセラーであり、当時これほど読まれた書物はなかった。

そこで福沢が説いたことは、漢学に対する洋学であり、実学であった。実学の根底には物理学などの自然科学がある。これが他の明治の思想家と根本的に異なる点であった。

下士階級に生まれ、常に上士の意向にしたがってきた福沢はまた、

「封建制度は親のかたきでござる」

と言明した。

「言語も賤しく応接も賤しく、目上の人に遭えば一言半句の理屈を述べること能わず。立と云えば立ち、舞へと云えば舞ひ、其の従順なること家に飼たる瘦犬の如し。実に無気無力の鉄面皮と云うべし」

と罵ったのである。

儒者、儒教に対する攻撃も「腐儒の腐説」として猛烈であった。福沢はただ一人で、旧来の陋習ロウシュウに挑戦したのであった。

福沢の著述は平易で庶民にも分かりやすく、また比喩が適切かつ奇抜で読みやすい。漢学の心得があるから論語がよく引用されている。そこに共通して述べれられているのは、西洋にあって、東洋にないものである。それは自然科学の思想と人民独立の精神である。

時代が違うとはいえ、こうした過激な書物がよくも刊行されたと思うが、検閲の任に当たった官僚は福沢の門下生であったことが幸いした。

福沢はまた文明を以て国の独立を図れと強調した。

「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」

と述べた。それは虎視眈々としてアジアをねらう西欧列強に、いかに対応するかを示したものであった。

福沢は、徹底した民主主義者であった。塾生には身分、階級を問わず、社会から疎外されていた部落の家の子も少なくなかった。先生というのは福沢のみであり、その他はすべて「さん」付けで呼ばれていた。塾生には謝礼を禁じ、すべてのものに授業料を収めることを規則とした。新しい教育の在り方を示したのであった。

この平等主義と不可分であったのは、女性に対する尊敬の念であった。江戸時代から続いていた女性に対する男性の横暴を排斥した。貝原益軒の「女大学」などは徹底して攻撃された。家庭では自分の妻にも「さん」付けで呼んでいた。

「一夫にて二、三の夫人を娶るは固より天理に背くこと明白なり。これを禽獣キンジュウと云ふも妨げなし」

と述べている。自宅で宴会などあったきの机やいすの片付けなどは、福沢が率先して行って男性に手伝わせ、下女にはさせなかった。シーボルトの娘とお稲が、日本で初めての産科医となることを、様々な面で支援した。

福沢が嫌ったのは怨望エンボウである。「学問のすすめ」の十三編に

「怨望の人間に害あるを論ず」

という項目があり、その冒頭に

「凡そ人間に不徳の箇条多しと雖も、その交際に害ある者は怨望より大なるはなし」

と書かれてある。

怨望とは、ただ人の不幸を以ってわが幸いとする情念である。社会の不幸を来すものは、怨望より大なるはない。猜疑、嫉妬、恐怖、卑怯などは皆是より出て、これが私語、密語、内談、秘計となり、さらに外に出ると、徒党、暗殺、一揆内乱となって国を倒すことになりかねない。

怨望の原因は何か。それは窮である。窮とは困窮の窮ではない。言わんと欲することを言わしめず、為さんとすることを為さしぬこと、即ち

「人の言語を塞ぎ、人の業作を妨げる等の如く、人類天然の働きを窮せしむること」

である。

福沢は、その最も甚だしきを、大名の御殿女中に見ることができる。という。自由人の福沢が最も嫌ったことである。

  • 医学・医療における寄与

福沢は適塾で蘭方医の教育を受けたから、医学・医療には詳しかった。外遊しても病院や福祉施設をよく見学した。また、「蘭学事始」を刊行して「ターヘル・アナトミア」を「解体新書」として翻訳した杉田玄白の苦心を紹介した。

幕末における医療の大きな問題は、多数の漢方医を洋医とすることであった。漢方医は自然科学を知らない。人体を五臓六腑とみなして、傷寒論などを頼りとしていた。だが、人体の解剖と生理を知らないで、診療ができるわけがない。

福沢は漢方医と洋医とを帆前舟と汽船にたとえた。

「吾輩は試みに世間の人に問わんとす。東京より船に乗り遠州洋を越へて大阪湾にまで渡らんとするに、日本型の帆船と西洋型の汽船と孰 れを択ぶぞ。如何なる愚俗凡庸にても帆船の危うくして汽船の大丈夫なるを知り、論もなく汽船に乗ることならん」

この比喩は卓抜である。西洋医学の導入の重要性を、これほど庶民にわかりやすく一言にして説いたのは、福沢ならではである。

また、将来の医療は、打聴診などよりも器械的に診断されるようになる。と言った。

「医術の進歩を案ずるに、十中の八、九、器械によらざるはなしと信ず」。

「蓋し病を診査するの法は此道に由るものより確実なるはなし。殊に今後視学の器械次第に巧を増すに従って、漸く内部を窺ふの区域を増し、子宮、直腸、又は膀胱、胃の裏面の如きは、恰も口中を見ると一般にして、尚精巧の極度を云えば、凡そ針大の器械を入れるべき処にして其実況を写し見る可らざるものなきに至るべし。或る人云く、医術は外科より進歩すると。此の言、真に然り」

これは現在の内視鏡医学を見通したもので、驚くべき先見の明があった。さらに医学における人体解剖の必要性を指摘し、その死体の少なさを憂慮していた。

北里柴三郎への支援は、福沢による医学への最大の貢献であった。北里はコッホの下にあって破傷風菌の純粋解剖に成功し、さらにそれから破傷風抗毒素を取り出し、血清療法を開発して世間を驚かせた。この血清療法はベーリングと共同してジフテリアにも応用された。ベーリングはこれにより第一回の医学・生理学ノーベル賞を受賞されたが、当時、受賞者は一人のみであったので、北里は受賞できなかった。現在であれば、ノーベル賞を日本人として初めて受賞したのは間違いない。

コッホに師事すること六年半、明治25年に北里は帰国した。だが、当時の我が国の衛生状態は脆弱で、北里を受け入れる施設がなかった。これに対して救いの手を差し伸べたのが、福沢であった。「学者の後援は自分の趣味である。幸い芝公園内に借地があるから、とにもかくにも手狭ながら研究所を造ってやろう」と言ったという。福沢が建てた小さな伝染病研究所はその後、適塾以来の友人長与専斎の支援を受けて大きく発展し、内務省に移管され、国立伝染病研究所となった。それは我が国の伝染病予防、公衆衛生の研究と教育の中核となり、大きな業績を挙げた。

だが伝染病研究所は、文部省の介入により、北里の意向を無視して東京大学の管轄下に置かれることとなった。今までのような自由な研究、教育事業が不可能になることを憂慮して、北里は退職することにした。北里に従って研究実績を上げた志賀潔(赤痢菌の発見)や秦左八郎(梅毒治療薬サルバルサン開発者)ら、部長から門衛に至るまで退職した。

こうして現在の芝白金三光町に北里は資材をなげうって研究所を創設した。財政上、福沢の貢献も大きかった。研究所の業績は増加し、これが後の慶応義塾大学医学部の母体となり、北里が初代医学部長となった。

北里は福沢の門下生ではないが、門下生以上のものとして福沢を尊敬し、葬儀には弔辞を読んだ。

  • 養生法と最期

福沢は三回大病に罹っている。七歳のとき、天然痘に罹患したが、これは全快した。次に適塾で腸チフスの友人の看病で自分も発病した。このときは昏睡になるほどの重体に陥ったが、緒方洪庵の手厚いケアを受けて回復した。その十四、五年後に、再び腸チフスに罹患した。その病気の原因は不明である。一説には発疹チフスが疑われていた。

福沢は昔から大の酒好きであった。適塾で禁酒を試みたが、塾生にからかわれて失敗し、喫煙習慣まで染まってしまった。

したがって生活習慣病のリスクは高かった。

だが、身長173㎝、体重67㎏との体格にすぐれ、力仕事は何でも行った。外遊して欧米人の体格に比して、日本人が貧弱なのを見て、それが食習慣にあると考えた。特に牛肉などの肉類や牛乳を積極的に摂取することを勧めた。欧米から帰国後の朝食は、パンにバター、半熟卵、カフェオレ、ミルクなどであった。

健康法としては、毎日、米搗きと居合を行った。米搗きとは、玄米を搗いて精製し、白米とすることである。臼に籾を入れ、重い杵で搗きながら籾を落とすのは、かなりの重労働である。できた白米を家族と食べ、ときには病人に見舞いとして贈ったという。

居合抜きも、毎日千本行った。野球のバットの1.5倍もある刀を長時間にわたって抜いたり差したりするのも、重労働である。60歳代でも続けたというから体力は抜群であったと思われる。

また晩年になっても、毎日6キロメートル歩くのを常とした。万歩運動の開祖である。股引に尻ばしょり、鳥打帽に竹の杖をつき、わらじを履いたこの散歩のあとに、慶應の塾生がぞろぞろついて行ったという。

65歳で脳卒中の発作を起こし、右片麻痺となった。幸いにしてこれは回復したが、68歳で再発し、1901(明治34年)年2月3日に亡くなった。おそらく高血圧があったと思われる。

福沢は次のような言葉を晩年に残していた。

「宇宙無辺の考えを以て独り自ら観ずれば、日月も小なり地球も微なり。況して人間の如き、無知無力見る影もなき蛆虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ」

物理学者によれば、人間の百年の生涯などは、宇宙から見れば一瞬に過ぎないという。福沢は宇宙から見れば、人間は蛆虫としての生き方がある。逆説ながらこうして福沢はさめた目で人生、社会、歴史、道徳を考え、生き方を説いたのである。

  • 戦後の福沢

先の大戦が終わって、福沢諭吉は復活した。没後83年の昭和59年に、その肖像が一万円札に印刷されたのである。今では誰でも一番大事にする紙幣である。福沢が知ったら怒るであろう。だが死人に口なしである。

もう一つは、戦後の東大名誉教授で社会思想史を専門とする丸山真男が、福沢にほれ込んだことである。丸山は戦後のオピニオンリーダーとして知られている。日本の思想史を書くべく儒学を読んだが、どれを読んでも千篇一律で全然面白くない。ところが福沢を読んだら、猛烈に面白くてたまらない。面白いというより、痛快々々という感じであった。特に「文明論之概略」を推奨し、政治学の学生のセミナーにも取り上げた。だが本格的に講義したのは退職後で、有志を集め、「文明論之概略」の講義を行った。その場合、一節ごとに音読せしめ、文章のリズム感を味わせた。この記録が岩波新書上中下の三冊として、刊行されている。

  • おわりに

福沢の生きた時代は、幕末から明治初期である。吉田松陰は福沢の四歳年上、橋本佐内は同年、坂本竜馬は一つ下、高杉晋作は五つ下である。福沢はこういう幕末の志士と同年代である。彼らには、非業の死を遂げたものが多かった。福沢も刺客に命を狙われることが少なくなかったが、常に用心して巧みに生きることを図った。そしてあの大部な著作を残したのである。

丸山は、福沢の「学問のすすめ」と「文明論之概略」を現代の古典として高く評価した。一方、昔、一校、三校などの旧制高校では、デカンショ(デカルト、カント、ショーペンハウエル)と称して、哲学が流行った。特にドイツ哲学が主体となり、西田幾多郎、和辻哲郎、田辺元などの哲学者の本がよく読まれた。だがこれらの哲学は思弁的で晦渋であり、社会に寄与することなく、現在は顧みられない。

福沢は庶民的であるから、エリート層からは好まれなかった。和辻哲郎は福沢を「功利主義の町人根性」と蔑視した。だが福沢の議論の根底には、自然科学があった。社会も自然科学的な覚めた見地からの考察を試みた。福沢の著書が今も読まれ、古典ながら庶民に今以て親しまれている所以である。

小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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