先人たちの「健康長寿法」とは?(八人目)前編

健康長寿には「健康」「経済」「心」が大事とされている。このうち「心」に関しては、あまり重要視されていないように思われます。それは、人生を終わりまで如何に生きるかという大きな人生観の問題を含んでいるからではないでしょうか。「長く生きる」とともに「良く生きる」ということを先人に学ぶ。江戸時代から近代までの先覚者八名の人生と健康法から学ぶ。

●尼子富士郎 (1893-1970)78歳 我が国老年医学のパイオニア

1.略歴

尼子富士郎は、1893(明治26)年、山口県下松市で、父四郎の六人の子の長男として生まれた。父四郎は、篤学の医師で『医学中央雑誌』という情報誌を明治6年に発行し、明治29年には芸備医学会を創設した。富士郎誕生の翌年に上京し、東京で診療を始めた。漱石の『吾輩は猫である』に出てくる甘木先生というのは、尼子四郎がモデルになっている。

尼子富士郎は、1918(大正)7年、東京帝国大学医学部を卒業し、第三内科(稲田内科)に入局、稲田龍吉教授に師事した。法医学教室で血液学網状系の研究で医学博士の学位を取り、その後、教室に戻って助手から医局長となった。博識で人望があり、将来は東大教授との声が少なくなかった。

転機は大正15年に訪れた。この年、財団法人浴風会が、京王線の高井戸に設立された。それは、五百人を超える身寄りのない貧窮高齢者を収容保護する我が国最大の養老施設であり、宮中からご賜金も下りた。問題はその医療にあった。

稲田教授は、尼子に「誰も手をつけていない老人病学を始めてみたら」と医長になることを推奨した。尼子はこれを受けて、その生涯を老年医学に捧げ、やがて我が国老年医学の父といわれるほどの業績を挙げることになったのである。

日本の老年に学に関しては、すでに1914(大正3)年に入澤達吉による『老年病学』(南江堂)が刊行されている。だがそれは、入澤が養育院附属病院に勤務中、施設在住の高齢者の診療に当たった経験を踏まえて書かれたもので、小児科に対する老人科と位置付けたものである。入澤はその後、東大内科教授になったが、老人病とは一切かかわりがなくなった。

浴風園が創設されたのは、関東大震災の記憶がまだ冷めやらぬ大正末期から昭和の初期であった。その頃、医学上で大きな問題となっていたのは、コレラ、腸チフス、赤痢などの伝染性細菌性疾患であり、結核であり、下痢・胃腸炎、肺炎などが臨床上の大きな課題であった。寄生虫疾患も蔓延していた。感染症に関する薬剤はなきに等しく、平均寿命は50歳を下回っていた。こうした時代に老年医学をライフワークとするなどは、酔狂な医師と目されたのである。尼子の決意には、並々ならぬものがあったと思われる。

浴風会の所在地も、東京府豊多摩郡高井戸町大字上高井戸の名の示すように、茫漠たる武蔵野の大地にあって、田畑の他には家らしいものはなく、狐や狸の跳梁するところであった。交通の便としては京王線の上高井戸(現在の芦花公園)下車で、その先はなく、ひたすら田畑や森の中を歩き、玉川上水を渡るという、夜などは物騒で歩けないようなところであった。そのうちようやく杉並木が伐採され、萩窪からのバス道路が通るようになった。

浴風会には病院がなかった。したがって病人は、尼子院長の診察に依存した。患者は老人寮在住の貧窮高齢者であった。その中には永らく箸と茶碗を使用したことがなく手づかみで食事をとるものや、新鮮な果物よりも腐敗したものを喜んで食べるものなどがいたという。

病室には、性別がなく、男女の病床が交互になっており、20床くらいの大部屋であった。ベットから転落して骨折を起こし、寝たきりから肺炎となって死ぬものが多かった。ほとんどの患者がおしめをしていて、病室に入ると異様な匂いがした。

人間の一生は、生老病死といわれる。この後半の老病死については、皆目わかっていなかった。老いとは何か、老年病とは何か、どのように死んでいくのか、このプロセスの解明には、ただ診察するのみでは分からない。亡くなったあとで、剖検して生前の臨床と対比し、初めて明らかにされるのである。

尼子は傍から見ると、養老院の一介の医長にすぎなかったが、こうした高遠な志に燃えていた。だから同窓生から「君ほど出世と縁遠い男も珍しいな」と言われても、一向に意に介さなかった。大学教授などの誘いも何回かあったが、応ずることはなかった。

診療所が病院となったのは、戦後の1960(昭和35)年のことであった。

尼子は78歳でこの世を去るまで、その生涯を老年医学に捧げたのである。

2.臨床病理学的研究

解剖学には三種類ある。第一は人体解剖学、第二は病理解剖学、第三は法医解剖学である。このうち人体解剖学は文字通り、人体の構造を解明するもので、医学生がまず一番に取り組むべき実習である。これはルネッサンス以降、十九世紀となってヨーロッパで著しく発達した。レオナルド・ダビンチの解剖図などを見ると、すでに細かい点まで描かれている。

第三の法医解剖は、不慮の死亡、毒物や外傷による死など、死因が不明で社会的に問題がある屍体を解剖するものである。高齢社会となり、孤独死が増加するに伴って需要が増加し、検視医が不足しているのが現状である。

第二の病理解剖は、臨床医にとって最も身近に感ずる医学である。

戦後、我が国にとっての伝統的なドイツ医学に代わって、米国医学が怒濤のように入ってきた。誰もが米国医学雑誌をまず読むようになった。その中で『NEJMニューイングランドジャーナルオブメディシン』は、内容が斬新で、英国の『ランセット』と並ぶ有名な米国臨床医学雑誌であった。我が国の臨床医がそこで注目したのが、毎号掲載されたCPC(臨床病理検討会)の記事であった。亡くなった患者につき、担当医が臨床経過、検査値、治療効果などのデータを提示し、それを上級医が該博な知識と論理で診断する。最後に、病理解剖医が剖検結果を徹底して解明し、患者の病気の本質を明らかにするというものである。

当時は、まだCT(コンピュータ断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像)などの、画像診断が全くない時代であった。担当医の診断論理は、隔靴掻痒の感を免れなかった。その時代にあって、『NEJM』のCPCにおける米国医師の緻密な論理と診断に至る過程には、我が国臨床医の範とすべきものがあり、大きなインパクトとなった。このため、毎週このCPCを翻訳して出版したり、大学の医局や大病院でも、CPCが盛んに行われるようになった。

尼子は剖検による実証的態度を初めから維持していた。新しく入園者があると、必ず一人一人を自分で診察し、一週間にわたって精密に検査し、精しい記録を作った。そしてそれを基本に老人の健康管理を行った。患者が亡くなると、剖検の承諾を得て自ら解剖し、生前の臨床経過を検証した。

浴風会に勤務した開業医の田村真は次のように述べている。「先生は剖検しなければ真の病気は分からないと、これらの老人を全部解剖し、詳細に記載し、後日のために一部を標本として保管されました。ある二月の寒い日、私達医局員が空腹と疲労のためふらふらしていた時も、先生は黙々とお仕事を進められ、一日に五体も解剖され、記録整理されました。

熱も出さず、喀痰もあまりないが白血球のみが増加していた老人がやはり肺炎だったり、右季肋下にあった固い腫瘤が実は胆石であったり、熱もなく老衰死とされていた患者が実は肺濃瘍であったり、剖検で私たちは先生から無言のうちに体で教えられました」

こうした尼子の仕事は、戦争中も一貫して実施された。千駄木町にあった尼子の家は空襲で焼けたが、居を高井戸に移して仕事を続けられた。

終戦後、第三内科から沖中教授の命により、多くの専門を異にする医局員が臨床医として送られて、診療に当たった。また東大病理の大津正一助教授が、剖検例を精細に観察記録した。月一回の十体のCPCは、かくして臨床病理学的研究のまたとない学問の場となっていった。

欧米に比して、我が国では心情的に剖検を忌避する傾向があった。一方、ヨーロッパでは、むしろ積極的に剖検して実証するという指向が強かった。例えば英国における「実験医学の父」「近代外科学の開祖」といわれジョン・ハンター(1728-1793)は斬首刑にあったり、墓場の死体まで掘り起こして解剖し、解剖学者としての剖検例は二千例を超えた。またあらゆる動物を解剖し、その数一万四千例に及んだ。これらは自ら剥製として保存した。外科医としての力量も一流であり、近代外科の基礎を築いた。我が国では、一流大学でも剖検率は低いが、北欧では八十%以上が剖検に付せられ、市民からは何の抵抗もないのである。

我が国で剖検率が高いのは、浴風会と養育院付属病院であった。それは身寄りのない貧窮高齢者が主たる対象であった。だがどのような人間であっても、老病死のプロセスは変わりない。浴風会での臨床医の記録は、大学病院のように十分とはいえないが、病理解剖医としての大津の記録は優れており、他の追随を許さなかった。

大津は死因を、直接死因と間接死因、副死因に分けて記述した。直接死因が肺炎、間接死因が脳梗塞、副死因は潜在的胃がんというようなものであった。高齢者の死因は若年者と異なり、一つに絞ることが困難である。些細なことが直接死因となる。誤嚥による窒息死なども稀ではない。また老化や全身の動脈硬化の程度が背景にある。大津は個々の剖検例に対してこうした所見を日本語で詳しく記載し、各例についてのすべての所見が書かれた記録を聴衆に配布した。

心臓の重量が三百グラムをピークとした正規分布をしていること、脳と心臓の動脈硬化度に違いのあることなどが想起される。

そこには大津の緻密は思索がうかがわれる。まさしく老年病理学であった。

大津は91歳以上の超高齢者と70歳代、80歳代の高齢者は、死因が異なるのではないか、超高齢者にはいわゆる老衰死が多いのではという課題に挑戦した。結果は両群の死因に差異がないということであった。そこには老化速度の違いがあるのみであり、どんな高齢者であっても、病が死因になるのであった。だが若年では死因にならないような病変も、高齢者では多臓器に影響が及び、複合的死因になるという特徴があった。

3.研究業績の発表

浴風会の最初の研究発表は、1929(昭和4)年の日本内科学会における「老年者の生理病理的研究一報」であった。以来、年々発表が続き、昭和17年の内科学会では宿題報告を行い、千二百例の臨床例、八百例の倍検例を基に、老化現象の解明、各臓器機能の特徴について精細な研究発表を行った。戦後の昭和26年の日本医学会では、「老年者の生理病理と臨床」と題する特別講演を、東大の安田講堂で天皇陛下陪席の下に実施され、聴衆に多大の感銘を与えた。老年医学という学問を、はじめて全医学会に衆知させたのである。

尼子は自身の研究発表は無論のこと、浴風会の症例で発表されたすべての研究を、原著論文として記録した。それには必ず英文の抄録が付けられた。だがこうした老年医学研究を掲載する雑誌たなかった。そこで自ら『浴風園調査研究紀要』という雑誌を、年二回発行し、日本全国はもとより、海外の主だった大学・研究施設に送付した。その創刊は1928(昭和3)年であり、世界の老年医学雑誌の嚆矢となるものであった。ドイツでは1939年、米国では1944年の創刊があり、尼子より10年遅れていた。日本老年医学会創設は、1956(昭和34)年であるから、学会誌の発行はさらに遅れていた。

『浴風園調査研究紀要』には「老年者の生理及び病理研究」という副題がつけられた。尼子の名は、老年医学の先駆者として、海外でよく知られるようになった。

(次回、先人たちの「健康長寿法」とは?(八人目)後編に続く)

小澤利男著「健康長寿を先人に学ぶ」(幻冬舎)より要約

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