あなたをとりまく「自然」と出会うために(前編)

あなたをとりまく「自然」と出会うために(1/2前編)

Opening the Wind

風をひらく教え~

母なる地球に触れて生きてきたアメリカ・インディアンの人たちには「風をひらく」という古い教えがある。それは、聞こえてくる風の音をとおして自分をとりまく世界を理解すること。

現代人が忘れてしまった「自然な生き方」のヒントが吹く風の中に隠れているのでしょうか?

ウェスタン・ショショーニ族の長老から教えを乞う。

「不自然」な生き方をする人間によって「自然」という言葉がつくりだされた

長い間、アメリカン・インディアンをはじめとするいわゆる「先住民」と呼ばれる人々の世界観を学んで、妙に納得させられた。どの部族も彼らには「自然」と「宗教」と「芸術」を表現する言葉が、まったく存在しない。

この3つは、今の世界においてこそ通用するが、前の世界の人々には全く理解されない。なぜなら、それらは彼らにとっては「日常生活」そのものであるからだ。彼らの暮らしてきた世界においては「自然」と「宗教」と「芸術」の3つは不可分のものであり、同時に特別なものでもなく、さながら「空気」のようにあたりまえのものとして存在しつづけている。

「宗教」についてたとえて考えてみよう。

現代社会の人間にとって「宗教」とは、毎週日曜日に教会にいったり、特別なときに神社仏閣を訪れたりすることであるが、アメリカ・インディアンにとっては、一日24時間すべてが宗教であり、宗教そのもののなかで生活をしている。偉大なる精霊の存在を常に感じながら日々を過ごす。歩くときは、自分の足の裏が何を踏みつけているのかを常に理解している。こうした生活が毎日、連続してどこまでもずっと続いていく。それが昔の生き方、前の世界の生き方である。

日曜日に神様に向かって懺悔をすれば、あとの六日間は好き勝手なことをして過ごせるような、合理性や利便性を求める今の世界の宗教とはわけが違うのだ。

「芸術」についても、同じことがいえる。芸術家といういと、今の世界では美を表現する才能に優れた者を指すように言われるが、前の世界では、すべての人たちが美に包まれながら生きていた。彼らは美とともにこの世界に生まれ、美とともに世界を歩いた。また、美はどこにでもあり、そのどこにでもある美を人々は認識することができた。

目の前に、足の下に、背後に、頭上に、どこにでも美が存在した。彼らは美を生きた。

今の世界の人の用語でいうなら、彼らのすべてが一人の例外もなく「芸術家」だった。世界が美に満ちており、すべての人が、「芸術家」であるとしたら、わざわざ「芸術」などという言葉を必要としない。「美しい生き方」とでも表現すれば十分ではないか。

そして「自然」である。

今回のこの文章において、あらためて「自然」という言葉を使う以外は、あえて「自然」という言葉を使うのを避けてきた。だからすべての「自然」という言葉には「」をつけている。

なぜかというと「自然」という言葉は、わたしにはとても「不自然」に思えるからだ。

「自然」は文明と称するものによって、前の世界から切り離された存在である。

アメリカ・インディアンは、それを「世界」と呼んできた。彼らにとっては、われわれの考える

「自然」こそが「世界」そのものだったからだ。

彼らはその中で美とともに一生をおくり、何世代にもわたって、永遠とも思えるような時の流れのなかで、すべての心とからだと環境のエコロジーバランスを取りながら、切れ目のない円環を描いて存在しつづけた。世界は終わりのないように見えた。実際それは数万年も続いた生き方であった。しかし、それらは「不自然」な生き方を至上のものとする人たちが登場するまでであった。

「不自然」な人たちの登場によって、そのはじまりから「世界の終わり」を見ていた。そうしたきわめて「不自然」なひとたちによって「自然」という言葉がつくりだされたことに違いない。

「宗教」という言葉がつくりだされる前に「神の道から外れた生き方」があったように、

「芸術」という言葉がつくりだされる前に「美しくないもの」がつくりだされたように、

「自然」という言葉がつくりだされる前に、「自然から外れた生き方」が始まったのでしょう。

日本人が「自然」という言葉を「ネイチャー」の翻訳語として、頭を絞ってつくりだしたのはおよそ100年前の19世紀後半だった。それ以前の、私たちの先祖も、世界の先住民と同様に「自然」「宗教」「芸術」などに当たる言葉をもっていなかった。いわゆる「自然」のことを「花鳥風月」などと風流に呼んできた。「花」と「鳥」と「風」と「月」ですね。

また、東洋では「自然」の構成要素を「陰陽」と「木火土金水」の五行に分ける東洋的な世界観が昔からあった。

同様に「地と水と空と風と火」というようにエレメントを五つの輪に分類する仏教的世界観に基づく見方もあった。この「花鳥風月」「地水空風火」の二つの「自然観」に共通する要素が「風」であることが興味深い。 なぜ「風」なのか? 風は、目に見えないが確かに存在する。

それは、雷と並んで、あまねく地球の先住民たちの信仰の対象となるほどの「自然現象」である。そして「自然」を理解するために、つまり自分が暮らしている世界を理解するために、「風」を使うやり方は、地球に生きるひとたちにとって共通のものである。

アメリカ・インディアンに伝わる「終わりのない輪」と「風をひらく」教え

アメリカ・インディアンの伝統的な教えのなかにある「風をひらく」技術について書きとめておく。

何年も前、アメリカのネバダ州の高原砂漠のなかで、ウェスタン・ショショーニ族という部族の長老であったローリング・サンダー、つまり「轟く稲妻」という名前の人物に、教えを乞うことがあった。彼は私の先生である。

彼は、自身が出会った一人でも多くの人々に、常に何かを教えようとし、自分が習得した伝統的な知識を多くの人たちと分けあって一生をおくった。また、彼と出会う人が何を必要としているか、一目で見抜く能力を彼は持っていた。

ローリング・サンダーはわたしに「終わりのない輪」について理解させようとしていた。この「終わりのない輪」は、中西部に暮らす「ホピ族」が、そのシンボルとして伝統的に使い続けているものとして、しばしば取り上げられるもので、アメリカ・インディアンの世界に興味を持つひとなら知らない人はない。もちろんホピ族だけのものではなく、広くさまざまな部族がシンボルとして用いている。それは、大きな輪を縦と横の2本の棒で十字に区切り、そこにできた4つのブロックに、それぞれひとつずつ小さな輪(サークル)を描いたものである。

この絵は、さまざまなものを意味する。

第一に、それぞれの4つの小さな輪は「赤・黄・黒・白」の肌の色を表し、それを取り囲む大きな輪は、「地球」を意味する。アメリカ大陸で太古からの記憶を伝承するホピ族は伝える。4つの肌の色をした人々が一つの地球をしっかりと守っている。

第二に、「わたしたちは誰であれ、皆、ひとりの例外もなく4人の祖父母をもっている」という意味である。わたしたちが今ここに存在しているのは、父と母、さらにその父と母のそれぞれの父親と母親の存在を抜きにして考えることはできない。これは、そうした祖父母から伝えられる伝統的な教え(物語)の重要さを表している。

第三に、小さな4つの輪は「決して終わることのない生命の輪」を意味している。現在で言うSDGS的な発想の人間社会論ですね。

人生を歩む(「生命の輪を回る」)際に、よりよい人生を送り、よりよい人間社会をつくるために必要な4つの階段を、それぞれの輪が意味している。

1つ目は、「聞く」ことである。耳を傾けなければ、何も聞いていないことになる。 2つ目は「見る」ことである。ただ漠然と眺めるのではなく、全身全霊でこまかに見る、観察すること。物事を細部にわたって見ることができなければ、それは見たことにならない。 3つ目は、耳を傾け聞いたこと、全身全霊で見て観察したことを「忘れない」ことである。学んだことを忘れては、何も学んだことにならない。 4つ目は、「分けあう」ことである。われわれが学んで覚えたことを分けあわなければ、輪は続かないのである。

かようにこれらは、伝統的で数万年続いた知恵や物語が、どのように伝えられてきたかを示したものであろう。そこでさきほどの「風」である。風はこの輪の上を吹きつづけている。

今回の主題となる「風をひらく」ことは、人生を歩む(「生命の輪を回る」)で大切とされる4つのうちで、1つ目の「耳を傾けて聞くこと」と深いつながりがある。ネイティブアメリカンはこの「風をひらく」技術を、世界を認識するため、「自然」を理解するために最も大切なものと位置づけている。もちろん、それを「風をひらく」と呼ぶのは一部の部族か個人であるかもしれないが、その中身は広くネイティブの人たちに共有されている。

昔から伝わる太古の教えを「風をひらく」というように、詩的に表現したのは、チェロキーインディアンに生まれた植物学者で詩人のノーマン・ラッセルの父親であったが、彼から息子に伝えられた知恵のその中身は、「地球にいきるすべての人たち」に共通するものである。

だた、現在では、多くの人たちが、どのようにして「耳を傾けて聞く」のか、その方法を忘れている。現代人は、自分が聞きたい音だけを選択して聴いている。そして自分が聞きたい音は、世界が発している音のほんのわずかな一部分にすぎない。大きな音だけを聞いて、小さな音は聞いていない。どなるような音は聞くが、囁くような声は耳に入らない。しかし、世界があなたに与えてくれる最もよい話のいくつかは、風にのってそっと囁かれるものである。そこで次章で「風をひらく」方法について説明することにしよう。・・・・・・・・次回に続く

文:北山耕平(作家・翻訳)あなたをとりまく「自然」と出会うために(1/2前編)

鈴木七仲・高橋明宏編集「自然な生き方と出会う」(サンマーク出版)より要約

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